(3/20封切)映画『三島由紀夫 vs 東大全共闘 50年目の真実』見聞録:人間・三島由紀夫は魅力的だが、その思想は危険極まりなし=対抗思想は「ちょぼちょぼ市民」論(故小田実氏)
前略,田中一郎です。
(別添PDFファイルは一部添付できませんでした)
(最初に若干のことです)
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1.(イベント情報)『5.17老朽原発うごかすな!大集会inおおさか』 – ノーニュークス・アジア・フォーラム ジャパン
http://nonukesasiaforum.org/japan/archives/1832
2.(別添PDFファイル)原発事故処理に再生可能エネルギー財源、政府法案 目的外使用可能に、「原発=安い」論に疑問符(朝日 2020.3.18)
https://www.asahi.com/articles/ASN3K6719N33ULFA018.html
https://www.asahi.com/articles/DA3S14406542.html
(一部抜粋)
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政府は、再生可能エネルギーの普及などに使い道が限られているお金を、東京電力福島第一原発事故の処理費用にも使えるようにする。処理費用が想定よりさらに膨らむ恐れがあり、財源が逼迫(ひっぱく)することに備えるという。使ったお金は将来、返すとしているが、一時的でも原発政策の失敗を別の目的で集めたお金で穴埋めすることになる。原発のお金を今の仕組みでは賄えなくなってきている。
(中略)電促勘定の財源は、電気利用者の電力料金に上乗せされている電源開発促進税で、エネ需勘定は石油や石炭を輸入する事業者などから集める石油石炭税となっている。両税はいずれも、それぞれの勘定の目的にしか使えない特定財源だ。ところが、政府は今月3日、エネ需勘定から「原子力災害からの福島の復興及び再生に関する施策」に使う資金を、電促勘定に繰り入れられるようにするための改正特別会計法案を閣議決定し、国会に提出した。エネ特で勘定間の繰り入れを可能にする変更は初めてという。
背景には電促勘定の苦しい台所事情がある。同勘定の収入は例年大きく変わらない。ただ、東電が負担するはずの原発事故の処理費用について、2013年12月の閣議決定で一部を政府が負担することになり、14年度から汚染土などの廃棄物を保管する中間貯蔵の費用を電促勘定から毎年約350億円計上してきた。
その処理費用は当初想定より膨らんでいる。経済産業省が16年末に公表した試算で、中間貯蔵事業は1・1兆円から1・6兆円になり、電促勘定からの支出は17年度から年約470億円に増えた。政府関係者によると、今後さらに増える可能性があり、財源が足りなくなりかねないという。
政府は改正法案を今の国会で成立させ、来年4月の施行をめざす。福島の復興を確実に進めるためと説明し、法案では繰り入れた資金は将来、エネ需勘定に戻すことも定めているので問題ないとする。ただ、再エネ普及などのために集めたお金を一時的にでも、国民の間で賛否が割れる原発のために使えるようにする変更には反発も予想される。
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(コレ、全くふざけてる! こんなことまでやりだして、もうどうしようもないね。アベ政権打倒、経済産業省解体、原子力ムラ公職追放、これしかない。それにしても、再生可能エネルギー業界はこれに対して怒らないのかな? :田中一郎)
3.(別添PDFファイル)大田区の町工場街 新型コロナ感染拡大の今、中小企業 むしばむ不安(東京 2020.3.19)
ダウンロード - e5a4a7e794b0e58cbae381aee794bae5b7a5e5a0b4e8a19720e696b0e59e8be382b3e383ade3838ae6849fe69f93e68ba1e5a4a7e381aee4bb8ae38081e4b8ade5b08fe4bc81e6a5ad20e38280e38197e381b0e38280e4b88de5ae89efbc88e69db1e4baac202020.3.19efbc89.pdf
(熟読が必要な貴重な内容の記事です。日本はこのような中小零細企業の活力を失ったら、ほんとうにもう終わりです。全国各地に散らばる、こうした中小零細企業の技術やモノづくりの魂が生かされるような産業政策や中小零細企業経営支援の政策が強く望まれています。国際競争を追いかけるだけが産業政策ではありません。私は「イノベーションよりもリノベーション」と言っています。また、消費税は中小零細企業いじめの悪税です。新しいポスト産業社会・工業社会の形成は、こうした中小零細企業の力量にかかっています。:田中一郎)
4.歴史戦と思想戦 歴史問題の読み解き方-山崎雅弘/著(集英社新書)
https://cutt.ly/mtcOvPO
(関連)「歴史戦」と「思想戦」の驚くべき共通点とは? 山崎雅弘×内田樹対談<前編> - ライブドアニュース
https://news.livedoor.com/article/detail/17987921/
(関連)「歴史戦」と「思想戦」の驚くべき共通点とは? 山崎雅弘×内田樹対談<後編> (2020年3月20日) - エキサイトニュース
https://www.excite.co.jp/news/article/Shueishapn_20200320_110932/
5.日刊ゲンダイより
(1)【安倍昭恵】「桜」新疑惑 昭恵夫人私的ビジネス出資者を30人以上招待|日刊ゲンダイDIGITAL
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/269705
(2)【佐川宣寿】森友学園問題を考える会・木村豊中市議「幕引きさせない」|日刊ゲンダイDIGITAL
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/270714
(3)【新型コロナウイルス】GPIF22兆円の損失 株価暴落&運用失敗でまた年金が消えた|日刊ゲンダイDIGITAL
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/money/270616
(4)【新型コロナウイルス】コロナで緊迫する病院経営「政府は現場を理解していない」|日刊ゲンダイDIGITAL
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/270637
(5)【新型コロナウイルス】安倍政権やるやる詐欺 布製マスク1人1枚配布のドッチラケ|日刊ゲンダイDIGITAL
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/270618
(6)【麻生太郎】森友文書改ざん 財務省“死人に口なし”で疑惑再燃潰しの卑|日刊ゲンダイDIGITAL
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/270672
(7)ダムはムダ!米国ではダムを壊し生態系回復の公共事業進む|日刊ゲンダイDIGITAL
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/270519
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さる2020年3月20日封切りとなりました話題の映画「三島由紀夫 vs 東大全共闘 50年目の真実」を見てきました。以下、私の感想を簡単に申し上げたいと思います。私が行った映画館は、封切り初日ということもあり、比較的大きな映画館でしたが全席ほぼ満席で、この映画に大きな関心が集まっていることに少し驚きました。それ以上に驚いたのは、おそらくこの映画を見に来ているのは、左翼の反対を言うことが生きがいの保守反動の化石頭ジジイたちか(三島由紀夫氏を崇拝している可能性あり)、ネトウヨおやじのような「オタク風」人士たち(サヨクいじめのネタ探し)がほとんどだろうと思っていましたが、実際は若い女性が多く来ていてびっくりしました。私の左右の席は若い女性でした。おかげで緊張して映画を見ることになってしまいました。
●映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』公式サイト
https://gaga.ne.jp/mishimatodai/
(関連)討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争 - Wikipedia
https://cutt.ly/EtcPdlt
1.この討論集会のことは若い頃から知っていて、もうだいぶ前に文庫本で「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘」(新潮社)というのも読んでいて、そしてその内容は既に忘れてしまっていました。あまり強い印象は残っておりません。私が大学に入ったのは大学紛争がほぼ終息した「祭りの後」の時代でしたから(1969年は私は中学生です)、全共闘のことも、三島由紀夫氏のことも、TVのニュースで見たくらいの話で、詳細は知りませんし、激しい大学紛争も実体経験しておりません。三島由紀夫氏の書いた小説や評論などもほとんど読んだことがありませんが、自衛隊・市谷に突入してクーデタを扇動し、失敗して切腹自殺したということくらいは知っていた程度です。私がフォークソングに興味を持ったころ、下記にご紹介する「カレーライス」という「ふにゃふにゃした」歌に、この三島由紀夫氏の切腹自殺の話がちょっと出てきます(批判している?)。
(関連)美と共同体と東大闘争 (角川文庫) - 三島 由紀夫, 東大全共闘 -本 - 通販 - Amazon
https://cutt.ly/VtcPW5x
(関連)遠藤賢司 カレーライス 歌詞と歌
http://j-lyric.net/artist/a0027b0/l00042c.html
https://www.youtube.com/watch?v=jrLRPXxTcCI
2.私は、今日の大学の腐敗・堕落の現状から鑑みて、この両者のうち、東大全共闘の方に興味と関心を持ち、彼らの生の声を討論の形で聞けることに期待して見に行ったのですが、残念ながらこの映画は、今日の右翼的潮流に便乗して三島由紀夫氏に着目をし、半ば面白半分・半ば興味半分でつくられている一種の娯楽映画のように思えました(少なくとも今日の社会を変革するための資料や教訓とするためにつくられたものではないです)。残念です。
3.映画の最初のところに出てくる反乱学生と警官隊との激突のシーンを見ていますと、あの学生たちの怒りの炎の底辺を流れるパッショのようなもの=正義感の強い若きストレートな熱情を感じてしまい、思わず「もったいないな」「なぜあれが大学や日本社会を変える方向にドライブしなかったのだろう」と、ふと思ってしまって目頭が熱くなりました。あの当時の闘争の中で肉体的精神的に傷つき、不幸にして亡くなった人たちもいますから、闘いがその後ネガティブな影響を山のように残して消えてしまったことが残念でなりません。今の学生どもに、あの当時の全共闘学生の1/10でも「正義感」や「熱情」があればとも思ってしまいます。討論の最後に三島由紀夫氏は、学生たちから共闘を問われ『諸君の熱情は信じます』という言葉を残して会場を後にしますが、私もまた、彼ら全共闘の「熱情」は高く評価します。でも、その熱情の発揮の仕方がよろしくなかった(単に「暴力的だからよくなかった」ということではありません)。
4.それともう一つ、三島由紀夫氏の演説のところどころに垣間見られる、その危険な思想です。暴力を肯定し、やるときは「一人一殺」でやる、その責任は自決によってとる、という「白色テロ」宣言のようなことを平然と言ってのける。その危険性は、映画だからいいようなものの、あれが生の三島由紀夫氏との遭遇だったとしたら、私なら恐ろしくてその場にはいられなかった・・・・討論どころではなかったでしょう。しかし、その点について、当時の討論集会の録画を見てのコメンテーター(映画の中で出てきます)の中で言及した人は一人もいないという、いささか「お気楽」というか真剣味が欠けているようにも見える映画でした。このコメンテーターたちは、当時はともかく、今でもこの三島由紀夫氏の(右翼的)(白色テロ)暴力肯定論について何とも思っていないのでしょうか(この討論集会が開かれた約10年前には、社会党委員長の浅沼稲次郎氏が右翼青年・山口二矢(おとや)に刺殺されています)。
(関連)浅沼稲次郎暗殺事件 - Wikipedia
https://cutt.ly/WtcPfer
5.「言葉(というもの)が力があった時代の最後だ」(芥正彦氏)と言われる白熱の討論、というか両者の格闘ですが、下馬評では、いつ暴力沙汰になってもおかしくないと言われていた集会でした。しかし、実際に始まってみると、相手の全共闘学生に比べてかなり年上の三島由紀夫氏の方はもちろんですが、全共闘の学生たちの方も、その討論マナーの最低限のところは守られていて、議論をしている間は相互にリスペクトをもって対峙するという紳士的な振る舞いで最後まで通していたようです。中には三島由紀夫氏のことを「三島先生」などと口走り、慌ててその言い訳をする学生までいました。「近代ゴリラ・餌付け料100円」などという三島由紀夫氏を揶揄しバカにしたポスターも、三島由紀夫氏にとっては若い学生たちのエネルギーのほとばしりくらいに見えていたのかもしれません。彼は討論会を振り返って「なかなか楽しかった」と言ったそうで、その心の余裕は大したものだったと思います。
6.残念なのは、映画にクローズアップされた全共闘学生からの提起された議論は、当時東大生の芥正彦氏のちょっと気取った「概念お化け」問答に集約されていて、せっかく様々なレベルでの具体的討論が期待されていたにもかかわらず、議論が現実離れした空理空論のようになっていたことなど(これに対しては異議を叫ぶ学生がいて、そんな抽象的概念ばかりを振り回していても何も見えてこないとの発言のために演壇に出てきた場面もあった)、東大全共闘の学生たちが、いわば三島由紀夫氏の演説の「引き立て役」のような役目を負わされているようで、あまり見ていて愉快ではありませんでした。今日の時代的情勢・背景を鑑みれば、この映画の設営はその逆で、全共闘の学生たちに注目するものでなければいけなかったはずです。
しかし他方で、この当時の芥正彦氏の議論に見られるように、当時の全共闘学生の言動の問題がどの辺にあるのか(将来へとつながり発展していかなかったこと、問題の解決やいい方向への進展にはつながらなかったこと、広く共感を呼ばず独りよがりの運動として先細っていったことなど)も、ある程度クローズアップされていた映画のようにも思えました。一言で言えば、あのような議論で大学を封鎖されてはたまらんな、ということです。
(関連)「三島由紀夫vs東大全共闘50年の真実」豊島圭介監督に聞く(日刊ゲンダイ 2020.3.21)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/270724
(関連)三島由紀夫対東大全共闘から50年 - 内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2020/03/09_1610.html
7.討論集会の最後の方で東大全共闘と三島由紀夫氏との「天皇」を巡っての議論の場面が少しばかり出てきます。ここはもう少し詳細に見たかったのですが、映画を創る方としては、故あってか、そうもいかなかったのでしょう。でも、やり取りを垣間見ていて、三島由紀夫氏が言う「天皇」とは、実際の昭和天皇という実在個人人物のことではなく、また、天皇機関説にあるような「天皇」という国家機関や地位や役割でもない、もちろん権威だけを保持する日本国の象徴でもない、すなわち「天皇」と称しながらも「天皇」ではない、日本の一般庶民・大衆の心深い底に沈んでいる「政治的被統治・被支配の歴史伝統的在り方・秩序」と「それに対する恒常的な服従の精神構造」のようなものを指しているようでした。ならば「天皇」などと言わなければいいのにとも思います。事実、三島由紀夫氏は、戦後、対米隷属下に置かれた日本国憲法と象徴天皇という、戦後の昭和天皇や天皇制の在り方については、厳しい批判者でありましたし、昭和天皇個人についても、批判と尊敬のアンビバレントな態度であったそうです。
8.それから、この討論集会は、ひょっとして三島由紀夫氏による全共闘学生へのオルグ活動だったのではないかと、見ていてそう感じました。コメンテーターとして登場する内田樹(たつる)氏のコメントが冴えています。内田樹氏は「三島はあの場所で相手の揚げ足をとろうとか間違いを指摘しようとしていたわけではなく、本気で1000人を説得しようとしていた」とコメントしていました。おそらくは味方にして、自分の白色革命の同志に育てようとしていたのでしょう。映画のコメンテーターの一人で、元東大全共闘の代表学生の1人だった木村修氏に、討論会の後、三島由紀夫氏から電話がかかってきて「盾の会に入らんか」との誘いがあったそうですから、まさにそうだったのだと思います。
9.結局のところ、三島由紀夫氏も東大全共闘も、ともに革命的(両者の意図する「革命」の内容は全く異なるが)暴力を肯定しつつ闘いを挑んでいた相手は「同じもの」だったのだという誰かのコメントも的を得ています。そしてこの時の両者の議論は、私は圧倒的に三島由紀夫氏に軍配が上がるような気がしました。まあ、考えてみても、三島由紀夫氏の方が年齢が上で一回りくらい違いますから、当然といえば当然でしょう。でも、その軍配は結局のところ、ほとんど何の意味もありません。議論で決着がつくようなことではなかったのですから、軍配は意味をなさないのです。ところで、この討論会はいったい何を残したのでしょうか? 右翼と左翼、その両極端のエリート・先鋭戦士たちが激突の議論をしたという、そのことだけが墓碑銘のように残っただけなのでしょうか。何十年もたって、改めて「三島由紀夫vs東大全共闘」の激突を、今度は活字ではなくて映画で見ましたが、でも結局また、しばらくすると忘却してしまいそうな気がします。全共闘運動の最大の問題は、そういうところにあったのではないかとも思います。
<映画に出てくる登場人物やコメンテーターの発言について一言>
*当事者たち
(1)三島由紀夫氏:人間・三島由紀夫は魅力的だが、その思想は危険極まりなし
(2)芥正彦氏:70歳を超える年齢の今になっても三島由紀夫氏の思想や考え方への批判はズバリ的を得ている(「文化としての天皇」ってなんだ、訳の分からないことを説明もしないでべらべらしゃべる・・・・・)、しかし、若き日の全共闘学生としての同氏は問題だらけです。同氏はかつての全共闘運動をどのように「総括」しているかとインタビューで聞かれた際に「自分は自分の考えを一貫させて、これまで自分の世界をつくって生きてきた、あなたに(インタビュースタッフ)とやかく言われる筋合いはない」という趣旨の発言をしていました。人生の終期を迎えてのこの発言は悲しい。
(3)木村修氏:おそらくフツーの勉強優秀の東大生、あの時の大学紛争を全共闘として闘ったことの「総括」が自分の内面でできていない様子
(4)小阪修平氏:死去してしまったために映画は若き日の録画のみ
(5)橋爪大三郎氏:この人物が一番著名人、時流に迎合する「よろしからぬ人士」というのが私の評価。要するに理屈をこねてロクなことを言わない。「あの頃のことは振り返ってみれば何でもよかった、ただ、ああしたことがあったことは忘れてはいけない」などとしたり顔で「総括」されるとムッとくる。頭がよくて発言の切れ味はいいが、倫理的な美しさや人間的な誠実性に欠けている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E7%88%AA%E5%A4%A7%E4%B8%89%E9%83%8E
*コメンテーター
(1)内田樹氏:鋭い指摘でズバリその通りだと思うことが多い。要注目。同氏も考えてみれば当時の東大生で、関係当事者そのもの。
(2)平野啓一郎氏:もっぱら三島由紀夫氏に関心があり、その三島氏を内面から理解しようとする姿勢。「三島氏の作品には瞬発的な激情や短く燃える熱情を扱った作品が多く、逆に、コツコツと長い時間をかけて営まれ育まれていくような生活に根差す努力や取組はあまり扱われない」という指摘は鋭い。
(3)瀬戸内寂聴氏:「三島由紀夫さんの目は天才の目だ」「あんな人はいない」は情緒的な表現ながらズバリ三島由紀夫氏を見抜いている。
(4)小熊英二氏:もうちょっと踏み込んだ発言をしてほしかった、この人は書物から離れると常にこうなのかもしれない。
(5)当時の「盾の会」会員だった3人:発言内容がつまらない割には、今もって危険な感じがうかがえる。「学生のゲバ棒に対して我々が日本刀を抜いたら終わりでしょ」とかいう発言には驚いた。
(追1)東大全共闘と今日の香港の武闘派とは「似て非なり」
外側から行動だけを見ていると、大学紛争時の日本の新左翼や全共闘学生たちとよく似ていますが、その内実は全く違います。香港の学生たちのうちの勇武派は、決して孤立した独りよがり型の行動至上主義者達ではありません。闘争に暴力は使わない派や、暴力行動までは自分の立場では踏み込めない派や、その他一般の香港民衆の圧倒的多数の支持と支援を受けて動いています。共通の敵は中共中国のスターリニスト官僚たちと、その香港での手下たちです。彼らは香港の民主主義と人民の基本的人権を侵害する人間集団とみなされています。
彼ら勇武派は、内ゲバや「自己否定論」に陥って閉塞感・孤立感を強めていった新左翼や全共闘学生とは、その行動の基本のところが違っています。実は、新左翼はともかく、全共闘運動も最初は広く一般学生の支持や大学外部の一般市民の支持や同情を受けていた、今日の香港の学生のような運動ではなかったかと私は推測をしています。それがなぜ、あのようになってしまったのか。当時の全共闘運動の「総括」とは、その点をはっきりさせてほしいという意味でもあります。先般開催された「大学闘争50周年」の記念集会でも、香港の人を招いて、この点についての質問が出ていました。「日本の学生運動の暴力は次第に孤立し支持を失っていきましたが、なぜ、香港では、それがそうならずに、今も続けられているのでしょうか?」「かつての日本の学生運動や全共闘運動と、どこがどう違うのでしょうか?」
(関連)香港デモ「勇武派」横行しても失速しないわけ - 麗しの島から - 福岡静哉 - 毎日新聞「政治プレミア」
https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20191025/pol/00m/010/012000c
(追2)全共闘や三島由紀夫氏の暴力闘争論に対抗する思想は「ちょぼちょぼ市民」論(故小田実氏)
右からの「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」(教育勅語)や「御国(おくに)のために立派な憂国の士氏となり命を惜しまず全身全霊で持って日本のために尽くせ」という激励や、左からの「赤く、より赤く、もっと赤く」(文化大革命時の紅衛兵)や「プロレタリアート人民の前衛として命を賭して革命成就のために全力を上げよ」などの勧誘に対して「きっぱりとNO!」を宣言、日々の生活の中で自らの限界や社会的制約を自覚しながらも、それをいかにして上手に突破していくかを考える思想。自分も他人も、人間としてたいして違いがない「ちょぼちょぼの市民」としての社会的存在を認め合い、その上で理不尽な支配や搾取や統制に抵抗するために連帯・協力していく思想、マルクスが言う「人間とは経済的社会的諸関係の総体である」というテーゼを身近な言葉で表現したものとでもいえるでしょうか。他人もまた「人間みなちょぼちょぼや」と思っていれば、他人がおかしな判断や行動をしていても、それほど腹も立たないでしょう。だって自分も似たようなものですから。それでどうするかを考えた方がいいですから。
この「ちょぼちょぼ市民論」は大学時代のゼミの先生から教えてもらった言葉ですが、これが実は惜しまれてなくなった作家で市民運動家の故小田実氏の言葉であったということは最近知りました。下記にあるような著書を発見したからです。1980年代の前半くらいに出た本で、早速図書館で入手して目を通しましたが、残念ながら「ちょぼちょぼ市民論」を展開した内容の本ではありませんでした。しかし、その表現から何が言いたいのかは、小田実氏の他の著書を山のように読んでいた私にはよくわかりました。右にも左にも、極端に傾かずに、生活人として、現代社会人として、現代社会のパルチザンとして、徹底して抵抗し、苦悩しながらも、自己の「ちょぼちょぼ」的存在性を意識して生きていけ、という風に受け取っています。
この考え方に沿っての私の行動提起は次の4つです。①各種選挙や最高裁判事の国民審査その他の有権者権利行使では、誰がよいかを真剣に考えて投票する(政治的主権の行使)、②日々の買い物において「いいもの」を選んで買う=粗悪品や素性の知れない商品・悪質な会社の商品やサービスは買わない(消費者主権の行使)、③市民運動・社会運動に参加をし、自分の仲間や友人を見つけて一緒に行動する、社会的に大きなうねりを創り出す努力をする、④権力の干渉や妨害を避けるため、うまく身を隠し、方便を使い、テキトーな言い逃れをしながら、悪性権力を掘り崩す、の4つです。そのためには、情報公開と公文書管理が制度として確立していることや、市民運動・社会運動におけるヘゲモニー争いをやめ、参加市民の言論や活動に干渉したり統制したり妨害したりしている「オレサマ活動家」ないしは「スターリンのミニブタ」たちには退場していただかなければいけないと考えています(「スターリンのミニブタ」が牛耳る運動には参加しないを徹底すれば、やがてなくなります)。
ということで、私は自分の名刺に記載する肩書が何もない、ただの石ころ・草の根=「ちょぼちょぼ市民」ですので、名刺には「ちょぼちょぼ市民連合」というペンネームを書き込んでおります。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
(関連)人間みなチョボチョボや-小田実/著(毎日新聞出版)
https://00m.in/99LHC
(関連)加川良 「教訓 I」 Kagawa Ryo -Kyokun I- (Lesson One) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=FSaMY7TRgFI
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