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2018年3月 2日 (金)

今こそ日本の大学は解体せよ=大学生の53%、読書時間ゼロ、末期症状を呈し始めた日本の大学

前略,田中一郎です。

(別添PDFファイルは添付できませんでした)

 

昨今、日本の大学と大学生について、嘆かわしい記事が若干掲載されました。簡単にコメントを付してご紹介いたします。私はかねてより申し上げている通り、(196869年の大学紛争時ではなく、今こそが)日本の「大学解体」の時であり、日本のほとんどの大学は頭狂(東京)大学を筆頭に末期症状を呈し始めていると考えています。

 

1.(別添PDFファイル)大学生の53%、読書時間ゼロ(東京 2018.2.27 他)

 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2018022601001612.html

 

(関連)(別添PDFファイル)菅直人氏も危惧 若者の読書離れで「知性格差社会」が進む 日刊ゲンダイDIGITAL

 https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/224210

 

(田中一郎コメント)

 日本の若者が読書をしない傾向にあるのは私が若いころからのこと、今に始まったことではないが、しかし、この記事は現代の日本の大学生のあまりにひどい状況を伝えている。しかも学生たちは本を読まないだけではない。新聞や雑誌も見ないし、昨今ではテレビのニュースやわずかに放送される社会問題を取り上げた番組も見たことがない、という大学生がやたらに多い(テレビはくだらない番組であふれかえっているから見ない、というのではない)。

 

 大学生たちは、およそ政治的なことや社会問題についても、全くと言っていいほど関心がなく、路上でのチラシ配布などでは受け取る若者は皆無に近い(時折「大丈夫です」などとエクスキューズをして受け取らない学生を散見するが、何が「大丈夫」なのかは不明)。そうした方面からの情報を自分自身で壁を作ってシャットアウトしている様子がうかがえる。要するに、自らがタコツボの中に入って精神的に閉じこもり、他方では、怪しげな主観的判断や情緒だけで動きまわる多動性障害のような行動パターンの若者たちが増大しているような感じがするのである。そもそもコミュニケーション能力についても疑わしい。かつてのオカルト・ブームや新宗教団体の跋扈、オーム真理教事件などと通底するものがあるように思われる

 

 若者の生態の社会学的分析はともかく、私は少なくともこの大学生の惨状について申し上げれば、大学は一体何をしているのかと言いたい。学生のこうした状況を放置しておいて、それで大学と言えるのか、教育機関として、教育者として、大学や大学教授どもは、いったい自分たち自身の責任をどう考えているのかと問い詰めたい思いである。読書ゼロで単位が取れる、卒業できる、そんなものが大学と言えるのかと。

 

 私の若いころも、大学教育の中身は実にひどかった。傾聴に値する授業は本当に少なく、人品骨柄怪しげで、千年一日のごとく陳腐極まる内容の授業を、下手くそなしゃべりでだらだらと続け、いつのまにやら居眠りの時間となった授業は計り知れない(もちろん全部がそうではない)。私は経済学部にいたが、現代経済の仕組みや動きを教える授業はほとんどなく、そもそも教授どもが現代経済の制度や仕組みそのものを知らず、大昔の古典を訓詁しては、あたりさわりのないようなことを言って時間を浪費していた(ある日、私は国際経済を論じていたある教授に、国際収支表の見方を教えていただきたいと研究室を訪ねたことがある。驚くべきことに、その教授は、「一度、そうしたことをきちんと調べてみたいと思っていた」と私に答え、国際収支表の見方に付いては詳しくは知らない、と返答した。私はあきれてしまい返す言葉がなかった。国際収支表の見方を知らないで国際経済を論じることができるのか? どうもできるらしい=なぜなら、大昔の国際経済を論じているからだ)。

 

 そもそも、大学紛争の名残で、大学の教室の椅子や机が固定され、学生はまるで養鶏場の鶏のごとく、その椅子机に並んで座らされ、粗末なエサとも言うべきくだらない授業を延々と聞かされ、時間になれば教室から放り出される。教室は学生に解放されることはなく、授業が終わればロックアウトされ、多くの学生は大学に来ても行き場がない・集まる場所もない・話し合いくつろぎ友人を見つける場所も機会も少ない、そんな大学生活が一般的だった。

 

 私は市民集会などでよく大学の構内に行くことがあるが、この大学の建物のあり様は昔と今とでほとんど変わっていない様子だ。それどころか、大学の中でのチラシ配布や署名集めはご法度、政治活動や社会運動も禁止で、それをやろうとすると、現代のゲシュタポとでも言うべき大学職員が顔色を変えて飛んできて、やめないと警察を呼ぶぞと恫喝する始末である。京都大学では、京都市役所のロクでもない役人や偏見の塊のような一部の市民と結託して、事なかれ主義の大学当局による「京大名物」の立て看板撤去の動きが始まったと聞く(京都の景観破壊をうんぬんするのなら、まずもってJR京都駅を撤去しろ! あれこそ京都の景観破壊の最大の巨悪である)。言論・表現の自由や政治活動・社会運動の自由は大学構内においては大学当局に弾圧され封殺されている。こんなものが大学と言えるのか、という状況だ。

 

 私の若いころでは考えられなかった事態が大学内で進行していて、こういう状況の中で学生生活を送る学生が政治や社会問題を避けて通る傾向は、この大学当局の弾圧行為に1つの大きな原因があるのではないかとも私は思っている。もちろん、大学教授どもは見て見ぬふりをしている。ひねもす国家権力や財界の御用に忙しい大学教授どもは、むしろこうした大学内での政治的抑圧体制を好ましいと思っているに違いない。経済学部で言えば、マルクス経済学を専攻する学者ほど、この政治的封殺行為に好意的であるようなので、さながら、彼ら似非マルクス経済学者たちは、旧ソ連や東欧諸国の体制を本音ベースで心より愛しているのかもしれない。

 

(それ以上に、私はある私学の教授を務める方から、大学での授業が学級崩壊をしていてどうしようもない、私語はやめないワ、食べ物は食べるワ、チューインガムはしがむワ、スマホはヤルワ、教授の話はきかないワと、もう授業の体をなしていない、という話を伺ったことがある。教授は毎回毎回、学生の生活態度の指導員のようなことをやらされてうんざり状態だけれど、大学当局はそれでもその教授に、学生と問題を起こさないでくれ、と言うのだそうである。学生の保護者から苦情が来ると困る、大学を維持していくには学生はお客様だから客として扱ってくれ、と言わんばかりの態度なのだという。私は、その私学の教授の話を聞いて、とても気の毒に思った次第である。その人に向かって、そんな大学なら閉鎖してしまえとも言えないでしょう。何故なら、その人はそうなったら失業してしまうから。でも、私は閉鎖した方がいいと正直思う。それは学生のためでもある)

 

 ともあれ、今回の報道で伝えられた「大学生は本を読まない」は、同時に「大学生は政治や社会問題を避けて通る」と表裏一体であり、それは多分に大学側の教育方針・大学運営に大きな原因があるように私は思う。常々申し上げてきたように、国家権力や支配階層の御用聞き人間たちのたまり場と化している今日の日本の大学が、財界や一部特定の企業からカネをもらい、文部科学省の役人や財界人などを評議会員=大学運営権限者として招き入れ、貧弱な内容の授業を日々披露して教育の手抜きを続け、学生に対してはその反乱を未然に防ぐために学内におけるあらゆる諸問題への学生の政治的・社会的な自主的活動を封殺して「ゲシュタポ型統治」を徹底し、大半の時間をくだらない会議や派閥抗争に明け暮れて時間を浪費している、そんな今日の日本の大学のあり様が、私には透けて見える気がしている。日本の大学は、大学当局も、大学教授どもも、そして学生たちも末期症状を呈している。日本の大学は今こそ「解体」されるべきである。(大学の運営については、下記の吉見俊哉氏の岩波月刊誌『世界』(2018/3)論文も非常に興味深いので、併せてご紹介しておきます)

 

(関連)「読書時間ゼロ」大学生の53% 原因はスマホではなく「高校までの読書習慣」

 http://blogos.com/article/280268/

 

(一部抜粋)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(中略)こうしたことから、読書時間の減少は「スマホが原因」と勘ぐる人も少なくないだろう。しかし、同志社大学の学習支援・教育開発センターの浜島幸司氏はこの仮説を否定している。2013年から2017年までの過去5年間のデータを分析し、「スマホ利用が読書を減少させたという説は支持されない。むしろ、最近の大学生の高校までの読書習慣が全体的に下がっていることの影響が大きい」

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(問題は大学にいる大学生のことであって、大学の今のあり様こそが問われなければならない。それを高校までの学校教育に責任転嫁しても何も始まらない。まして大学生のスマホ依存症ともいうべきものを免罪にするなど、トンチンカンも甚だしきである。この分析をした人物もスマホ中毒で本を読まないタイプなのかもしれない。通学中の電車の中でスマホをカチャカチャやっている暇があったら、少しは本を読めよ、と言いたくなるでしょう。ちなみにスマホに使う時間は平均で3時間だそうである。平均なのでもっと長時間、スマホ漬けの大学生もいる。嘆かわしい事態だと私は思う。なお、スマホに代表されるネット情報世界の閉塞的病理については、同じく吉見俊哉氏著の「トランプのアメリカに住む(1):ポスト真実の地政学(『世界 2018.1』)」に非常に興味深い議論が展開されていますので併せてご覧いただければと思います。:田中一郎)

 

(関連)(別添PDFファイル)トランプのアメリカに住む(1):ポスト真実の地政学(イントロ部分)(吉見俊哉 『世界 2018.1』)

 https://www.iwanami.co.jp/book/b341462.html

 

2.(別添PDFファイル)トランプのアメリカに住む(3):ハーバードで教える(イントロ部分)(吉見俊哉 『世界 2018.3』)

 https://www.iwanami.co.jp/book/b352253.html

 

(田中一郎コメント)

 岩波月刊誌『世界』の今年1月号から連載が始まった吉見俊哉東京大学大学院教授の論稿で、今回が3回目。毎回、とても興味深いので注目しているが、今回は同氏がこのほどハーバード大学に客員教授として赴任して経験した大学内でのできごとを詳細に紹介してくれていて、上記で申しあげたことと深く関連するのでご紹介したい。

 

 吉見氏は、この論稿の中で、同氏が所属する東京大学大学院の教育や大学運営の在り方と、ハーバード大学でのそれとの大きな違い=違いというよりも「格差」(もちろんハーバード大学が高位置にあり東京大学が低位置にあるという形での格差)について、詳細に教えてくれている。

 

 ハーバード大学での授業は、あらかじめ担当教授によって作成されるシラバスという詳細・緻密な授業計画(これが教授と学生との間の「授業内容に関する契約」的位置づけであるという)、授業におけるTA(チーチング・アシスタント)という教授とは別のもう一人の「准教授・助教授」的存在の重要な役割、教授が授業の主役ではなく、学生が前もって参考文献を読み、自分で調べ、自分の頭で考え、自分の意見や考えや発想を教授やTAや他の学生たちと話し合う中で、それをまとめていくという、学生が主役の授業の在り方(教授は主役ではなく演出家だと同氏は言う)、など、日本の養鶏場型お粗末大学教育とは天と地ほどの差があるハーバード授業風景がこの論稿で描かれている。1つ1つの科目がとても充実した内容になっており、学生たちは卒業するまでの4年間に、こうした授業を積み重ねていくので、大学で学んだということが卒業後も強く学生たちの記憶に残り、その後の人生に大きく寄与していくことが予想される、そうしたハーバード大学での授業のあり様が説明されている。羨ましい限りではないか。

 

 また、ハーバード大学では、蔵書やサービス内容も充実した立派な図書館、大学内を走るバス、学生寮、などなど、充実した施設と豊富な研究資金で、ソフト面のみならずハード面でも日本の大学の比ではなく、更に、授業以外の大学運営に関する諸事務・雑務についても専門化・分権化されており、意思決定が速いことに加え、何ごとに付けてもメリハリが利いていて、時間の使い方が効率的・効果的であるという。ただでさえカツカツの大学運営予算を文部科学省がその恣意的支配を強めつつ年々削減している日本とは雲泥の差だ。人的資源以外にこれといった資源のない狭苦しい日本という国が、かような貧困なる教育政策・教育予算でいいのかと、霞が関に向かって怒鳴りたくなるような気持になった次第である。

 

 それに比較して日本の大学=東京大学はどうか。吉見氏は、まずもって日本の学生は、義務付けされている履修科目が多すぎることを指摘している。毎期毎期、たくさんの科目を背負わされ、とてもではないが、それらの科目を一つずつ丁寧に熱心に深く追いかけて勉強することは、物理的に困難な状況に学生が追いやられているという。この吉見氏の主張は、私も全く同感で、今も昔も科目履修の在り方や授業の進め方が変わっていないのなら、学生はやはり粗末なエサ(授業)で肥育される養鶏場の鶏の域を出ていない。くだらない根本原因は一つ一つの授業や科目を大事にしないところからきている。そしてこのことで最もご利益を得ているのは、とりもなおさず大学の教授どもであることは申し上げるまでもない。

 

 他にも吉見氏は、大学自治を名目に教授会がやたら様々な問題を抱え込んで、会議形式・協議会形式による意思決定を繰り返しているため、延々と雑事のための会議に教授陣が追いまくられ、小田原評定の日々が続く中、意思決定が遅れに遅れ、そして決定事項に関する責任の所在がどんどん不明確になっていくのだという。この辺も、私の会社員だった時代とよく似ていて、さもありなん、と思う次第である。意思決定をする当事者たちを無責任化するための諸会議の度重なる開催、これは現代日本の組織人の習性なのかもしれないが、かようなことを大学がしていては、まともな大学自治も大学運営も築くことはできないだろう。大学自治の形骸化、あるいは文部科学省による大学自治の破壊が言われて久しいが、実は、大学自治などはとうの昔に自己崩壊をしていたのではなかったのか。

 

 もちろん吉見氏がこの論稿で書いていることがすべて正しく的を得ているとは私も思っていない。たとえば同氏がハーバード大学でシラバスを書いた「日本の中のアメリカ」という自身の授業、とても興味深そうな感じがするが、その若干の説明がこの岩波月刊誌『世界』の論稿の中で出てくるけれど、そこには「戦後日本の対米隷属の構造とその変化」についての同氏の問題意識はないように思われる。そんな授業内容で本当にいいのかと一見して思った次第である。また、大学事務の専門化と決定権限の分権化・効率化なども、事の次第によっては重大な大学自治の侵害や大学運営の私物化を招くのであって、なかなか一般論で論じることは難しいだろうとも思う。

 

 が、しかしである、私の経験から言っても、日本の大学は、もう我慢ならないところまで落ちぶれ、大学教授どもの大半は堕落し事なかれ主義となり、ロクでもない日本社会を支える一つの大きな大黒柱となっている。そして、そこに学ぶ学生たちは養鶏場の鶏扱いをされつつ、本を読まない・活字を避けて通る・政治や社会に全く関心をもたない・情緒的で情報閉鎖的な、おかしな人間形成が進められている、そんな悲惨な大学の情景が目に浮かぶのである。将来の日本を背負っていく中核的な人間たちである若き大学生が、こうした形で毎年大量生産されて社会に送り出されていく、そんな日本の未来が明るいわけがない。

 

 改めて申し上げる。集会に結集されたすべての(大昔の)学生諸君、日本の大学は今こそ解体されるべきである。

草々

 

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