被ばく強要を「リスクとの折り合い」などと詐称して原子力ムラに寄り添う似非リベラル、他方で「邪悪権力」に勇気を奮って立ち向かう市場原理主義者(清水修二と古賀茂明)
前略,田中一郎です。
(別添PDFファイルは一部を除き添付できませんでした)
(最初に若干のこと)
1.ネット署名:「いのちの海とサンゴ礁を守れ」~辺野古新基地に反対、作業の中断を(重複ご容赦、拡散歓迎)
<日本語>
http://www.foejapan.org/aid/henoko/pr_150325.html
Change.orgのページ:http://goo.gl/mQwGBg
<英語>
http://www.foejapan.org/en/aid/150325.html
Change.orgのページ:http://goo.gl/QiWW5d
2.(別添PDFファイル)経済産業省前テントから(2015年4月6日)
経済産業省前テントからの大切なお知らせです。別添PDFファイルをご覧ください。この別添PDFファイルは転送・転載歓迎です。川内原発再稼働にかかる工事計画認可について、次のような記述もあります。よくご覧になっていただければと思います。
田中委員長は、各担当部長専決で工事計画認可を進めてきたことに関して、「規制委員会、規制庁ほど透明性を持っていろいろ仕事をしているところはない」と居直っているが、18日の規制委員会は「工事計画認可に関する専決処理」についても再確認をしたのである。したがって、今後も工事計画認可に関しては、担当部長の専決処理という「閣の中jでどんどん進められ、規制委員会には認可に関して「事後報告」だけが行われるという最悪の事態となってしまう可能性が高い」
(ここから本文)
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昨今、下記別添PDFファイルの2つの記事が東京新聞と毎日新聞に掲載されました。1990年代初頭のバブル崩壊以降、日本は三流以下の政治の下で、経済のみならず、社会や思想や論壇や科学・技術や倫理・道徳までもが転落に次ぐ転落を続け、失われた25年になってしまっています。本来ならば、バブル崩壊による日本経済の転落を政治や社会が食い止め、逆境を転機としつつ、新しい時代を切り開いてこなくてはいけなかったのですが、三流以下の政治の下では、それもままならず、マスコミやアカデミズムが堕落・腐敗、あるいは日和見をする中で、どうしようもない情勢・状況が出来上がってしまっているのです。
下記に紹介する2人、私はこれをメールの表題に書いた通り、「被ばく強要を「リスクとの折り合い」などと詐称して原子力ムラに寄り添う似非リベラル、他方で「邪悪権力」に勇気を奮って立ち向かう市場原理主義者(清水修二と古賀茂明)」と評価しました。本来であればリベラルは、危機の時代にあってこそ、政治・経済・社会のしかるべき在り方を、わかりやすく適時適切に有権者・国民・市民に示し、時代の流れが大きくゆがんだ方向へ行かないよう、勇気をもって言論や活動を展開せねばならないところです。しかし、日本のリベラルと称される一群の人々の多くは、少し前の民主党政権に代表されるごとく、覚悟の決まらない中途半端な「日和見」を決め込み、(野党・非自民)政権獲得という大きな可能性を手にしたにもかかわらず、体を張って日本の歪んだ諸制度や社会の仕組みに立ち向かうことを避けてきました。そして、3.11福島第1原発事故が起きて以降は、原発震災の被害者の財産や生活や仕事や未来への希望のみならず、その命と健康までもを奪い、踏みにじらんとする原子力ムラ・放射線ムラの邪悪権力に対決することもなく、筋の悪い、背骨の歪んだ、しかし自分たちには都合のいい楽観的でお気楽で無責任な言論や活動を展開しているのです。
その代表の一人として、今日、東京新聞4面に掲載された清水修二福島大学特任教授(財政学)を取り上げ、そのインタビュー記事に沿って厳しく批判してみます。ただ、忘れてはならないのは、似非リベラル人士は、この清水修二だけではなく、日本には、そして海外にも(おそらくはアメリカの民主党やイギリスの労働党周辺に多い)、わんさといて、多くの政治・経済・社会問題の根本的な解決の障害となっています。昔、「第5列」という言葉が時折使われたことがありますが、まさに彼ら似非リベラルの客観的な社会的存在意義は「第5列」そのものであり、本来であれば根本的な解決へ向かう大きな流れの腰を途中で折り、被害者を含む問題解決に当たらんとする「非権力」側の多くの善意の人々を困難に陥れています。あるいは、物事を悪化させている私利私欲の塊のような邪悪権力(原子力ムラ・放射線ムラなどはその典型)と「寄り添い」つつ、あるいは「なれあい」、あるいはまた、自分たちの欺瞞的な似非行為を合理化するためにもっともらしい屁理屈をこね、更に善意で動いている改革志向の多くの市民までにも悪態をついて、事態を悪化させていくのです。
今回は書きませんが、3.11以降、私も、この似非リベラルの人士たちや、彼らが創るグループ・団体の正体を、それまでは「平和な時代」なのか、見えなかったものが、はっきりと見せつけられる経験をしています。近親憎悪を起こさぬようにと、私は自分に言い聞かせておりますが、それまで応援・支援してきた経緯もありますから、憤り・怒りは隠せぬものがあります。ともあれ、所詮、似非は似非、リベラルでもなんでもない、単なる邪悪権力の使い走り・別動隊・側面支援隊にすぎず、結果として悲劇を大きくしてしまう連中であるということを、私たちは見抜かなくてはならないのです。ホンモノとニセモノ=似非、これを区別できるかどうかが、市民運動・社会運動が成功するかどうかの分かれ目です。
ところで、もう一方の古賀茂明氏については、少し前の私のメールでも何度かにわたり情報提供しています。今回は毎日新聞(4/6朝刊)の記事をそのままご覧いただくことでいいのではないかと思います。毎日新聞がこの問題を大きく取り上げて報道したことは評価できると思いますが,しかし他方では,記事の見出しがよろしくおないことに加え,つまらぬコメンテイターのコメントはいらないので、もう少し古賀茂明氏の言い分を披露させてやってほしいと思いました。邪悪な支配権力とのバランスからみて、それが当然でしょう。私は少し前に、市場原理主義とは(支配権力となれ合うための、そして支配される者たちを(資本増殖のための「フロンティア」創造のために)叩き伏せるための)ご都合主義である、と論じましたが、その観点からすると古賀茂明氏は、もはや市場主義者ではあっても市場原理主義者ではないということになりますでしょうか。
いずれにせよ、本来であれば、邪悪権力の批判は、まさにリベラルの仕事であったものが、この「転落の25年」の間に、日本では、いつのまにやら市場原理主義者や右翼たちの仕事になってしまい、リベラルの多くはお気楽な似非リベラルと化して、山の上から日和見を決め込んだり、邪悪権力との安直な妥協や「なれ合い」や「折り合い」を、自分たちの勝手な判断でやってしまって、そして、たちの悪いことにその背信行為を屁理屈で合理化しているのです。この社会言論状況のある意味での「ねじれ」と「ゆがみ」、お気楽なムードの中での日本社会の転落の加速化が、現在の日本を特徴づけているような気がしていますが、今回取り上げましたこの2人の、(本来は役回りが逆のように思われる)言動のコントラストは、その現代日本の思想状況・社会状況をよく現しているように思えます。
それから、下記でも少し申し上げますが、マスコミによる、こうした似非リベラルに対する「よいしょ」記述が目に余る点も指摘しておきます。既に、邪悪な支配権力に対しては、マスコミの経営層や幹部たちが尻尾を振って久しく、文字通りの「マスごみ」と化しておりますが、そうした邪悪な支配権力側に立った御用学者や御用人士への「よいしょ」記事の氾濫に加えて、こうした似非リベラルへの「よいしょ」記事も看過できないくらいに目に余るようになってきています。しかも、似非リベラルの場合には、マスコミの幹部達よりも、現場にいる記者やスタッフらの本音のセンチメントが反映している場合もあり、不勉強に加えて、何事をも批判的に見て、批判的に伝えていくという、ジャーナリズムの不屈の精神構造が大きく揺らいでいる証左だとも言えるでしょう。この東京新聞記事はその一つの典型のように思えてなりません。
(清水修二発言のどこがおかしいかをビジブルにするために、「×印」を書き入れた東京新聞も別添PDFファイルとして添付しておきましたので、ご参考にしていただければと思います)
<別添PDFファイル>
(1)強いられたリスクと折り合う(福島大・清水修二特任教授
東京 2015.4.7)
(2)強いられたリスクと折り合う(「×印」付)(福島大・清水修二特任教授
東京 2015.4.7)
(3)「圧力」か「暴走」か、テレ朝・古賀氏降板問題(毎日 2015.4.7)
http://mainichi.jp/select/news/20150406k0000e040120000c.html
<関連サイト>
●「放射線被曝の理科・社会」の問題点
http://yahoo.jp/box/vxL8Ue http://yahoo.jp/box/vxL8Ue
東京新聞の記事の中にも出てきますが、「「放射線被曝の理科・社会」(かもがわ出版)という本が出版されました。副題が「四年目の『福島の真実』」となっています。」のとおり、この新しく刊行された清水修二他著作の本が大問題となっています。これについては、上記のサイトにある批判論文を参照されてみてください。放射線被曝、とりわけ内部被曝=それも恒常的な低線量被曝の危険性に関する誤った認識がベースになっており、清水修二自身が、彼の言うところの「放射線被ばくによる健康被害の有無は、原発の是非とは切り離して、客観的、科学的に論じなりればならない」とはなっていないことが、大きな問題なのです。おそらく彼は、経済学者として、「原発の是非とは切り離して」放射線被曝のことを考えたのかもしれませんが、しかし、福島県をはじめ原発震災からの地域復興の利害や政治的「思惑」「偏向」とは切り離して考え、判断し、言動することができなかったのでしょう。似非リベラルとはそういうものです。
●ウィキペディア 第5列
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E5%88%97
●(再論)市場原理主義とはどういうものか
いちろうちゃんのブログ
http://tyobotyobosiminn.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-e3dd.html
以下、記事に沿ってコメントします。
====================================
(記事)「(東京新聞記者)経験を伝え、よりよい未来を開こうとしている人に「福島の今」を聞いた。毎回一人ずつ四週にわたり紹介する。初回は脱原発を訴え続ける清水修二・福島大特任教授。」
(田中一郎)
そもそも恒常的な低線量被曝(外部被曝・内部被曝)と「折り合い」を付けられる(「放射線被曝に耐えて居住する」くらいの意味)と認識しているところに根本的な問題がある。放射線被曝の危険性に「しきい値」はない。ましてや恒常的な低線量被曝(外部被曝・内部被曝)で、いつも、寝ても覚めても、ずーと外部被曝・内部被曝をし続けることの危険性は、言葉が尽きないほどだ。しかも、福島県のみならず。東日本一帯に広がる汚染地域(茨城、栃木、群馬、宮城、千葉、東京、埼玉、岩手、神奈川など、およそ天然キノコ・山菜が規制値を超えたところはすべて危険な汚染地域である)の中には、「放射線管理区域指定基準」(5.2mSv/年、0.6マイクロシーベルト/時)を超えるようなホット・スポットもあり、そのようなところで「折り合い」を付けることなどできる話ではない。
それに、この原発事故と放射能汚染には加害者(東京電力)や責任者(国、原発メーカー、御用学者など)がいるではないか。何故、その者達に福島第1原発事故の責任を徹底してとれ、被害者救済に全力を挙げよと迫らないのか。日本の経済力なら、福島第1原発事故で汚染された地域の方々に、万全な形で、一時的にでも避難・疎開・移住していただき、原発事故前と変わらない形で充実した生活や人生を送っていただくような条件を整えることは十分にできるはずである。
それを、清水修二のような似非リベラルの人間を含む原子力ムラ・放射線ムラの連中が、被害者を救済するための費用・出費を惜しみに惜しんで出し渋り、、被害者の方々を苦境に陥れているのが現状ではないか。そもそも、賠償・補償負担回避に加えて、原発事故の責任回避をも併せて狙っている様子がある。しかも、このままひどい放射能汚染環境下で生活を続けると、チェルノブイリ原発事故後の旧ソ連諸国で見られ始めている様々な健康障害が現れ始め(既に小児甲状腺ガンは多発)、取り返しがつかないことになってしまいかねないのだ。既に被害者の方々は、財産、生活、家族団らん、仕事、地域コミュニティ、未来への希望などを奪われ、絶望の淵にある。今度はその方々の、命と健康までもを奪おうというのだろうか。
清水修二が言うように、この恒常的な低線量被曝(外部被曝・内部被曝)の非常に危険なリスクは「強いられたリスク」である。ならば、そんなものは「拒否」できるはずであり、また、拒否しても、きちんと賠償・補償が行われることは法治国家として当たり前のことであり、あるいは、「子ども・被災者支援法」は、そうした人に対してさえも、きちんと再建の支援を行えと定めているのである。清水修二は、何故、それを真っ先に提唱しないのか?
それから,清水修二が副座長・委員をつとめている「福島県民健康調査検討委員会」だが,最初のメンバーが様々な問題を引き起こして県民の信頼を喪失し,委員が大きく交代して清水修二もこの委員会の委員となったのだが,リベラルな考え方の委員として彼に期待されていたことは,その多くが裏切られてしまった。今では,「福島県民健康調査検討委員会」は,環境省の似非専門家会議と平仄を合わせながら,福島県の子どもたちの被ばくにともなう健康上のさまざまな懸念を矮小化し,軽視する側に回ってしまっている。清水修二に期待されたリベラル人士としての,この「福島県民健康調査」の抜本的な改善へ向けた様々な取組なり言動は,ほとんど「見かけ倒し」に終わってしまっているのである。
さて、こういう状況の中で、「強いられたリスクに折り合え」などと被害者に「上から目線」で強要するような人間を、東京新聞のように「経験を伝え、よりよい未来を開こうとしている人」などと、底抜けの楽観的な肯定評価ができるものなのか。私には、うなずけない記述である。
・・・・・・・・・
(記事)「(記者)最近、「放射線被曝の理科・社会」(かもがわ出版)という本を出されました。副題が「四年目の「福島の真実』」となっています。
(田中一郎)
これについては、上記で申し上げたように、「関連サイト」にある「「放射線被曝の理科・社会」の問題点」という論文をご覧いただきたい。
・・・・・・・・・
(記事)「(清水)放射線被ばくによる健康被害の有無は、原発の是非とは切り離して、客観的、科学的に論じなりればならない」
(田中一郎)
その通りだ。しかし、上記で申し上げたように、清水修二自身がそうしたことができないまま「折り合い」をつける、などと言う。この発言も、漫画「美味しんぼ」の著者を批判するために使っているところに、救いがたいトンチンカンがある。要するに放射線被曝が理解できていない、恒常的な低線量被曝(外部被曝・内部被曝)の危険性についての認識が乏しいということを自ら吐露しているに過ぎないのだ。
(上記より転記)
放射線被曝、とりわけ内部被曝=それも恒常的な低線量被曝の危険性に関する誤った認識がベースになっており、・清水修二自身が、彼の言うところの「放射線被ばくによる健康被害の有無は、原発の是非とは切り離して、客観的、科学的に論じなりればならない」とはなっていないことが、大きな問題なのです。おそらく彼は、経済学者として、「原発の是非とは切り離して」放射線被曝のことを考えたのかもしれませんが、しかし、福島県をはじめ原発震災からの地域復興の利害や政治的「思惑」「偏向」とは切り離して考え、判断し、言動することができなかったのでしょう。似非リベラルとはそういうものです。
・・・・・・・・・・
(記事)「(清水)ところが、(漫画「美味しんぼ」の)鼻血の問題があれだけ騒がれた。漫画家には悪気はないんです。でも、地獄への道は善意で敷き詰められているという言葉があるように、悪気はなくても、おかしなことになることはある。」
(田中一郎)
よくぬけぬけと、こういうことが言えたものである。似非リベラルの正体見たりでしょう。「地獄への道は善意で敷き詰められているという言葉があるように、悪気はなくても、おかしなことになることはある」は、そのままこの清水修二にお返ししておこう。「しきい値」がなくて危険のみならず、「放射線管理区域指定基準」を上回る放射能汚染とも「折り合い」をつけて、猛烈な放射能汚染地域に住み続けろ、とおっしゃるその言葉が、そのまま「地獄への道」なのだ。清水修二は、事実上、「フクシマ・エートス」にでも「転向」したに違いない。
・・・・・・・・・・
(記事)「(清水)原発の最大の受益者は首都圏です。福島県に来たお金は、建設からこれまでで、全部ひっくるめて二千八百億円ぐらい。被害は数兆円から十兆円で、とても引き合わない」
(田中一郎)
何を言っているのか、と言う印象だ。原発の最大の受益者は首都圏(一般の住民)ではなく、原子力ムラ及びその代理人たちだ。そして、その代理人は福島県にもいたはずである。そうした連中に対してきちんと始末をつけたのか? 福島と首都圏の、あるいは発電地域と電力消費地とを、こうやって「一般的」に対立・敵対するものとして描くことに私は賛成できない。首都圏の一般の人たちも、福島第1原発事故の放射能で汚染され被爆させられている。東京と言えども,その23区内においてさえ,ホット・スポットはいたるところにあって被ばくの懸念は尽きない。首都圏の住民は,程度の差はあれ,原発事故の被害者なのである。また、福島県やその他の汚染地域も日本の国の一部であり、それが放射能で汚染されることなど、許せないと、圧倒的に多くの首都圏住民は考えている。
インタビューの最後の方で「避難している人の肩を持てば、避難していない人を傷つけてしまう。子供のことを心配すれば、(福島県に)子供と一緒に住んでいる親を加害者にしてしまう。単純な正義は成り立たない。」などと、これまた偽善・欺瞞の言論を吐いているが、清水修二の、福島県民と首都圏の人々を対立させる、こういう似非言論に惑わされてはいけないのだ。あくまでも原発で利益を得ていたのは、原子力ムラの人間達とその代理店(福島県内を含む)だ。
首都圏の人間に問題があるのは、原発で利益を得ていたことではない。福島第1原発事故後において、被害者の方々が救済されないまま放置され、他方で、誰も責任も罪も問われないままに、原子力ムラが復活してきているのを、指をくわえて、無関心のまま放置していることだ。清水修二も、首都圏の一般有権者・国民・市民を批判したいのなら、その不作為と言うか、無関心というか、平和ボケと言うか、そういう危うい今日の状況を批判せよ。
・・・・・・・・・
(記事)「(記者)チェルノブイリによく行かれています。 (清水)5回行った。最初のときは、第三者的な立場で「大変ですね」で終わり」
(田中一郎)
そうか、清水修二はチェルノブイリにいくのに、第三者的に「大変ですね」などと言いながら行くのか。信じがたいものがある。要するに他人事を物見遊山的に、経験を積むために、行ってみました、ということか。これも似非リベラルの正体かもしれない。
・・・・・・・・・
(記事)
「(記者)女子高生から「私は折り合えるようになったけど、お母さんがまだ」という話を聞いたことがあります。」
「放射線の問題は子供に大きなストレスを与えている。先日、放射線アドバイザーの意見交換会があった。そのとき話題になったのが「学校の先生は「そんなに心配しなくていい」と教えたが、お母さんはものすごく心配している。子供はどうしたらいいのか」という問いだった。」
「同じようなことが、夫婦の間でも起きている。誰も悪くないのに、みんなが苦しみ、時に傷つけ合っている。そういうことが、福島県外の人にはなかなか理解してもらえない。」
(田中一郎)
典型的な放射線ムラ御用学者・医者・医学者の「受け売り」発言である。子どもの被ばくを心配するお母さんたちのストレスの原因は、放射能も放射線被曝も心配ない、たいしたことはない、という、上記の「学校の先生」の発言のような、科学的実証的根拠に乏しい無責任極まる楽観論の押し付けである(無責任でないというのなら、この教師は、そして清水修二らの似非リベラルらは、万が一健康被害が出たら、どのように自分の発言の責任を取るというのだろうか)。
みんなが苦しみ、時に傷つけ合っている、ことは十分に知られている。しかし、「誰も悪くない」ことはない。こうしたことの原因は、原子力ムラ・放射線ムラの嘘八百やハッタリ、無責任発言であり、また、清水修二のような似非リベラルによる、邪悪権力=原子力ムラ・放射線ムラとの、勝手に「折り合い」をつけた、その側面からのバッシングへの加担であり、そして、放射能の不安や被ばくの危険性について、口に出しても言えないような状況を、似非リベラルの人間たちも一緒になって創りだしている、その社会状況なのだ。現状の悲しい現実の原因をねじ曲げるな、と申し上げたい。これは東京新聞の記者に対しても同様だ。
(ほんとうに恒常的な低線量被曝(外部被曝・内部被曝)の危険性はたいしたことがなく、多くの住民が心配のしすぎなのであれば、その心配されている方々に、放射線被曝の危険性を厳しく見ている科学者・研究者の人たちにも入ってもらって、充分に理を尽くして説明・説得し、安心してもらえばいいではないか。しかし、そんなことはできない、つまり危険なものは危険である、という実態があるからこそ、こうした「説得の努力」や「様々な考え方の討論・議論」の場は設けられずに、原子力ムラ・放射線ムラとその周りにたむろする似非人間達や代理店などで、被ばくへの懸念を押しつぶしているのである。これが清水修二の言う「折り合い」だ。もはや彼にとっては、被ばくの危険性を訴える言論や、放射能への懸念を表明するお母さんたちの吐息は、福島の復興を妨害する邪魔者でしかないのだろう。似非リベラルは、原子力の翼賛の片棒を担ぐものである。
・・・・・・・・・
(記事)「(清水)福島の人間は、放射線と付き合っていかないといけない。それはゼロか百かの話ではない。どのくらいのリスクなのかと考えて、折り合っていくということだ。選んだりスクではなく、強いられたリスクだから、納得のいくものではない。そういう事態を引き起こしたのは原発事故だ。」
(田中一郎)
それはあなた=清水修二の考えであって、他人に押し付けるようなことではない。そもそも、上記で申し上げたように、社会政策として、原発事故後の放射線被曝防護対策として、原発震災の災害復旧対策として、放射能汚染と「折り合い」をつけて、汚染の真っただ中で住み続けるというのは決定的な誤りだ。それを福島大学の教授ともあろう人間が公言してはばからぬなど、許せる話ではない。何度も申し上げるようだが、被害者の方々には万全の賠償・補償・再建支援を行って、放射能汚染地帯から少なくともいったんは避難・疎開・移住していただく必要がある(線量が十分に下がるまで)。そして、本当の意味の「折り合い」とは、そのあとで、この大事故の責任と罪をはっきりさせることを意味する。被害者住民を、猛烈な放射能汚染地帯に留まらせ、放射能まみれの生活を、不安を口に出せない状況を作り上げて、経済的に絞り上げて、押し付ける、そういう「暴力」は、いかなる屁理屈をつけようとも許されないし、原発事故の責任と罪を棚上げにして「折り合い」をつけるなどという似非リベラルの言論も許すことはできない。
・・・・・・・・・
(記事)「避難している人の肩を持てば、避難していない人を傷つけてしまう。子供のことを心配すれば、(福島県に)子供と一緒に住んでいる親を加害者にしてしまう。単純な正義は成り立たない。」
(田中一郎)
正義とは単純である。なぜそれが、上記のようにゆがめられているのか、清水修二も経済学者なら、少しは掘り下げてよく考えてみることだ。それを考えもしないで、上記のように、原子力ムラとその代理店政府がつくりあげた「現存被爆状況」という、ふざけた言葉で表現された状況の「記述」だけをして、事態改善のための大きなモウティブの一つである「正義」を愚弄するのはやめておくことだ。
・・・・・・・・・
(記事)「一本の記事でなくてもいいが、こういう事実もあるが、また、こういう(違う)事実もある、と書いてほしい。事実をありのままに報じることが権力をチェックすることになる。最初から権力を批判するというスタンスで臨むのは、ちょっと危ないところがある。」
(田中一郎)
「最初から権力を批判するというスタンスで臨むのは、ちょっと危ないところがある」 よく言うよ。自分自身が、その(邪悪なる)支配権力側にいるから、新聞に対して、少し手加減をしてほしいというのを、妙な屁理屈形式で言いぬけているのだろう。恥を知れ、である。福島第1原発事故の前も後も、およそ、権力 は、まともだった時があるのか。「最初から」も何も、記事を書くときは、既に原子力ムラ・放射線ムラの邪悪なる権力による山のような悪事と、その犠牲者が広がっているのだ。その認識が少しでもあるのなら、かような「甘ったれた」言動は出てこない。
・・・・・・・・・
(記事)「(記者)清水先生から「「福島が不幸であるほど、脱原発にはいい、と思っている人がいる」と言われた。。福島に住む反原発学者の重い言葉だ」
(田中一郎)
ほんとうに清水修二はそのようなことを発言したのか。したのであれば、この男の「脱原発」「反原発」などは「ニセモノ」中の「ニセモノ」だ。脱原発・反原発の市民運動・社会運動に粉骨砕身して携わる、名もなきグラスルーツの人たちの姿を全く知らず、チンピラ似非右翼と同じようなことを口走っているのだろう。この清水修二、福島大学か何か知らないが、大学の外で起きる様々な社会問題を、こうした「上から目線」の「歪んだ態度」で見続け、自分の居心地の良い場所を創るための(似非)リベラル言論を続けてきたのだろう。もはや、この男の正体は明らかだ。早く静かに隠居せよ。(聞くところでは、福島第1原発事故後の福島大学内で、若手研究者・准教授クラスにより大学運営の抜本改善を迫られた時も、清水修二は副学長として、しかるべきことをしていなかった可能性が高い)
(東京新聞の記者も記者だ。かような脱原発・反原発の市民運動・社会運動に対する誹謗中傷の類を「重い言葉だ」などと言っていると、そのうち、東京新聞も、この似非人士たちと同じだとみなされてしまうぞ。似非リベラルへのゴマスリはやめよ。
・・・・・・・・・
(記事)「(記者)脱原発の中で「原理主義」と「修正主義」という分断が起きていると聞いた。真の敵を見失ってはならない。」
(田中一郎)
脱原発=脱被ばく=被害者完全救済という、本来の脱原発・反原発の市民運動・社会運動の在り方に対して「原理主義」などと、バカにしたような言葉を使い、他方で、清水修二のような似非リベラルを「修正主義」などと「高く」評価している(私は修正主義が嫌いだが、あえて「高く」と形容しておく)。「修正主義」とはどういうものか、西ドイツのベルンシュタインにさかのぼって、よく勉強してこい、と申し上げておこう。「修正主義」とは、それなりの見通しを持った社会改革の考え方であり、現在の社会民主主義につながっている。似非リベラルの邪悪権力との「なれあい」「よりそい」「融合」という、愚かなご都合主義とは一線を画している。
最後になりましたが、こうした清水修二に代表される放射線被曝の歪曲・矮小化・軽視の言論に、はっきりと「NO!」を突き付けましょう。彼らの言う福島や被ばく被害地の未来には、とんでもない事態が待ち受けている可能性があります。恒常的な低線量被曝(外部被曝・内部被曝)の危険性、それは何度強調しても、強調しすぎることはありません。
草々
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