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2014年4月14日 (月)

戦後民主主義の終焉、そして人間が侮辱される社会へ(辺見庸・佐高信 『週刊金曜日 2014.4.11』 より)

前略,田中一郎です。

(別添PDFファイルは添付できませんでした)

 

 今週号の『週刊金曜日』(2014.4.11)に興味深い対談が掲載されています。簡単にご紹介いたします。現代日本の文学や論壇の世界は、もうだいぶ前から「へにゃへにゃ」のがらくたの山ですが、辺見庸氏は、そうした「逆境」の中で一人、核心を貫く勇気と孤高の輝きを放つ稀有の作家です。私もまた、辺見庸氏と同様、今の日本は既に「ファシズム国家」=「原子力翼賛国家」に転落していると認識しておりますが、私とは違うアングルから日本社会の病理をえぐり出す辺見庸氏の議論にはひきつけられるものがあります。

 

 <別添PDFファイル:添付できませんでした>

●戦後民主主義の終焉、そして人間が侮辱される社会へ(辺見庸・佐高信 『週刊金曜日 2014 4 11』)

 

 下記サイトの説明によれば、『週刊金曜日』では、今週から3回にわたってこの対談を連載するそうですので、ぜひご覧になってみてください。ファシズム=翼賛国家とは、ものごとの単純化と判断の極度の歪み(根性の歪みといってもいい:情報の遮断とセット)が表裏一体となっていて、それに「日本の古層」(丸山真男)とでも言うべきものの一角を形成している「頂点同調主義」と横方向への(権力を大なり小なりに笠に着ての)「同調強要圧力」がからみつき、更に縦方向(権力の上下関係方向)の下へ向かっての無限の無責任がつらなっています(いわゆる総アイヒマン化現象)。従ってまた、国家の基礎にある経済秩序や社会規制が崩壊して混乱をきたし、不満・不安・いらだちが表面化してくるものの、その処方箋がみあたらないまま右往左往して、争い事だけがセンセーショナルに展開していくような、まことにいかんともしがたい病的社会のことを形容しております。

 

 現在の日本の様子を見ていると、ファシズム=翼賛体制というものは、一度の失敗では克服できないのかもしれないなとも思います。かつてドイツが2度の世界大戦を引き起こして猛反省を迫られ、曲がりなりにも今現在は、民主主義がかろうじて機能する西欧国家となっています。しかし日本は、アジア太平洋戦争において一度目の失敗を経験しただけであって、二度目は未経験です。しかし、今日の日本の政治・経済・社会は、いわゆる「戦後」の後始末も自分たちできちんとできないまま、再びあの昭和初期の戦争時代の社会状況と非常に似通ってきており、同じような「失敗」を繰り返そうとしているかに見えます。

 

 昭和の失敗は、大義なき侵略戦争であり、軍閥跋扈の軍国主義であり、そして激烈な敗戦でした。しかし、今度の失敗は、戦争ではなくて原子力となりそうです。日本は長い年月をかけて戦禍から立ち直ることは出来ましたが、今度の原子力の災禍からは立ち直ることはできないでしょう。永久の放射能汚染地獄へ沈むことになります。その意味で、日本のファシズム=原子力翼賛に未来はないのです。我々は、覚悟を決めて、この翼賛をひっくり返すか、でなければ、みんなで滅べば怖くない、で一緒に地獄に落ちるかです。

 

●「戦後民主主義の終焉、そして人間が侮辱される社会へ」(辺見庸・佐高信 『週刊金曜日 2014.4.11』)

 https://twitter.com/Kobayasita_Kasi/status/452049205830225920

 

(以下、一部抜粋と私のちょこっとコメント:敬称略)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

辺見庸 「いまは人間が侮辱される時代になっている。人闘が、お互い、無意識に侮辱しあっている。そういう世界ができてしまった。それなのに、侮辱と屈辱の時代になっているのだとい、2自覚が持てていない。」

 

辺見庸 (ツウィッターについて)「ぼくもやっていないんですが、百何十字で書いて、それをばらまく。あれを総理大臣がやっている時代なんです。あれが言語空間の主流になっている。安倍的ファシズムのなかには、そういうものもあると思うんです。ひじょうに平板な構文のなかで、わかりやすい単語をつかって納得し会う関係性。それはファシズムの基本形の、ひとつの特徴です。」

 

(田中一郎)全く同感。だから私もツウィッターはやらない(正確には、やってこなかった)。がしかし、昨今、選挙に勝つためにはやらんといかんのか、と思い始めている。ファシズムに加担するということだ。

 

辺見庸 「そもそも、新しいメディアには悪意があるのかというと、おそらくないんでしょう。ぼくはそこに問題があると思っているんです。ツイツターにせよ、我々も持っている携帯、スマートフォンにせよ、悪意はなくとも、あきらかに資本がある。儲からなければ、やるはずがない。ぼくはこういうものはすべて貧困ビジネスだと思っているんです。いまの資本主義の本質には貧困ビジネスがある。もっともお金のない人びとから1円でも2円でも、どうやって搾りとるのかということをITを企画する者たちは考えている。それがこの世界です。それを左派の連中も転倒して考えてしまっている。これで革命が起きるとか、中東に民主化が起きるとか、冗談じゃない。

 

(田中一郎)全く同感。ITとかネットとか、みなそのたぐいで、そもそものその金儲け無責任主義が気に食わない。がしかし、ITというのは、私の氏名のイニシャルでもある。ほとほといやになってしまう。

 

辺見庸 「ぼくはこういうコンピュータ化というものが、言うところの「文化の深まり」とはまったく違うと見ています。あえていうけど、そういうものも安倍のファシズムと無関係ではない。安倍の力の基層にはネットの閤社会がある。ネット社会の住人たちに、安倍に対する反発は少ない。保守化しているというだけでなく、もっと病性を感じます。」

 

(田中一郎) そうです。ビョーキです。

 

辺見庸 「安倍的ファシズムというのを絵画的にいうと、たとえば小松とか長谷川とか百田とか、ろくな形がない。当惑するしかないアルルカン(道化)が多い。ファシズムに「定式」はないのですが、歴史的なファシズムのなかには、ある種のグロテスクがある。ナチズムがそれを見せてくれました。安倍の靖国や天皇制に対する執着というのには、やはりファシズムの原型としてのオカルテイズムがある。」

 

佐高信 「安倍や百田に名指しで批判されている「朝日新聞」元主筆の若宮啓文という人聞がいます。(中略)安倍や百田に反撃できないかと『週刊金曜日』から若宮さんに打診したのですが、一度はのったものの結局、断ってきたんです。あそこまであしざまに言われていながら、いま反撃しないでいつ反撃するのかと私は思いました。」

 

辺見庸 「ぼくもその業界にいたから相談を受けたりもしますけど、とにかく悶着を起こすなということらしいですよ。(中略)いまぐらい権力の脇が甘い時代は

ない。特ダネなんか取り放題だと思う。籾井などというとんでもない人聞がNHKの受信科をつかってのうのうと生きている。」

 

佐高信 「品悶着起こすなというのは銀行員がよく言うことです。いまのジャーナリストは銀行員と同じ。しかし悶着起こすのがジャーナリストでしょう。」

 

辺見庸 「聞くところによると、先の東京都知事選では25歳以下の、選挙権を持つ人間の4人に1人が田母神に投票したというんです。メディア状況がこれだけ変わっているのに、連中の考えていることの平板さというのはむしろ以前より幼稚化している。安倍ファシズムはそこにとりいり、つけこんでいる。本人も単純だから、ネット社会とうまく解け合う。そこに怖さがある。」

 

辺見庸 「組織ジャーナリズムに期待できるものはゼロだと思う。いまの組織ジャーナリズムは戦後民主主義のぬるま湯のなかで育ってきたものです。闘った経験というものがない」

 

辺見庸 「フリクション(摩擦)を起こさせない。現実の権力に過度のイチャモンはつけない。テレビのキャスターのような連中がいちばん都合がいいんです。ああいうのはいっぱいいる。でも根源的な批判をし、自由に語る人間はスムーズに消去していく装置が、すでにできている。それが極端な段階にまできているんじゃないでしょうか。」

 

佐高信 「その絡みでいうと、私は心ならずも三宅坂の社民党に同伴してきました。でも、やっぱり集団とか組織が優先なんですよ。つまり、一人ひとりが本気で反対する気があるのかどうか。集団では反対するけれども、一人ではあやふやという、その集まりの臭みに耐えながら、社民党とは付き合ってきました。私は、負けたのはそこなんじゃないかと思うわけです。

 竹中労が言ってましたが、人は弱いから群れるんじゃなくて、群れるから弱いのだと。そこがわかっていない。一人ひとりがガチで反対する気があるのかと。集会が終わりました、きょうのスケジュールは終わりました、というような感じだったのではないか。」

 

(田中一郎)佐高信も時にはいいことを言う。全くその通り。そして、今の市民運動・社会運動にも似たようなところがある。

 

辺見庸 「集会でね、日比谷の野音かどこかでね、白いテーブルクロスしたところにみんな偉そうに座ってね、あれすごく嫌いなんですよ。(中略)何十年も原発をほったらかしてきたくせに、今頃偉そうな顔して言うかって思うわけです。(中略)戦後民主主義はお気楽なロールプレイングゲームみたいところがあったと思うんです、それぞれのね。」

 

辺見庸 「そういうものじゃなくて、本気でやる気があったのかと。ここがぼくがいま一言わなければならないし、問われていることだと思うんです。そうであれば、事態はとうの昔に変わっていただろうと。それぞれの生身において、すでに開かれているべきだった戦端を開かずに、ずるずる引き延ばしてきて、いま、こうして辱めを受けているという実感があります。人閑はここまで貶められ、見棄てられ、軽蔑すべき存在でなければならないのか・・・・・ファシズム云々でなく、この原点回帰が思考上欠かせません。」

 

辺見庸 「戦後民主主義とともに言わなければならないのは戦後左翼のありようです。これも佐高さんのおっしゃる通りで、組織優先だった。自己組織を対象化して、それを真に批判しえた人間がいたのか。戦後左翼においても「個」は確立できなかった。戦後左翼のなかで反日共系の新左翼は美化されたわけですが、ぼくからすると醜悪でしたよ。プント(共産主義者同盟)なんてのはいまだに懐かしいみたいに言われるけど、冗談じゃないと思う。」

 

(田中一郎)これも全く同感。「”新”左翼」などと言われているが、どこが「新」なのか? むしろマルクスあほだら教、ないしは教条主義的原理主義激派ぐらいではなかったか。いずれにせよ、頭が化石化していたのでは?

 

佐高信 「私は半分は自分が読まなかった言いわけで言うんだけど、マルクスより魯迅を読むべきだったと思う。戦後左翼のいちばんの欠点を自分にひきつけて言うとね。疎外とか何とか、社会的矛盾が内面化されていない。魯迅は、単純化していえば、報復の論理です。刺し違えるんだと。その意思がないまま、現状分析がどうだとかそういう話になる。それは個の外側にあるものなんですよ。」

 

(田中一郎)いや、やっぱり、魯迅よりもマルクスを読むべきです。しかも、徹底してです。

 

辺見庸 「『朝日新聞』は「産経新聞』よりマシだとか、平和憲法を大事にしているとかいうけれど、一方で天皇の特集なんかをやってるらしいじゃないですか。ぼくは読んでないですけど信用していませんよ。ああいう『朝日』的な戦後民主主義がいかにインチキだったか。さっき言った、ひとりで、とことん、やるのか、死ぬ気でやるのか。そこまで追い詰められているはずですよ、いまの情況は。」

 

(田中一郎)朝日新聞=ぜんぜんだめですね。マスごみです。

早々

 

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