「原子力翼賛社会」とはどういうものか?
みなさま,こんばんわ
今日は,私がよく申し上げている「原子力翼賛社会」って,いったい何? どんなもんでんねん? これについて,可能な限り分かりやすく論じたいと思います。下記は,それのトライアル版です。自分で読み返してみて,作文のつたなさを強く感じますが,他方で,能力の限界も感じますので,さしあたりこれで失礼いたします。
まず,「翼賛」の「翼」と「賛」に注目してみましょう。
「翼賛」の「翼」とは文字通り「つばさ」です。あれが欲しい,これが欲しいの「欲」ではありません。また「賛」とは「賛成」の「賛」であり,漢和辞典で調べましたら「すすめる,たすける,さあさあと前に押しすすめる,わきから励まして力を添える」などと書かれておりました。
「翼賛」を,その漢字の意味だけから類推するに,広げた翼のようになって,あるいは翼を広げたような喜びと賛同の力を開花させて,さあさあと前に押しすすめる,わきから励まして力を添える,といったくらいの意味だと推測されます。ちなみに,国語辞典(広辞苑)では「力をそえて(天子などを)たすけること」とありました。
「翼を広げる」で,まず私が思いつくのは,鳥達の翼を広げた姿です。下記のサイトをご覧ください。
*【可愛い!】ちょっと変わった鳥たちのプロポーズ【何これ?】 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2133544565637968701
http://blogs.yahoo.co.jp/samberasam51/39588130.html
でも「原子力翼賛」の「翼賛」って,この鳥達のかわいらしくも,ちょびっとほほえましい「求愛」とはちょっと違うように思います(原子力に求愛する変態がいないわけではありませんが)。
では,こっちはどうでしょう?
*エリマキトカゲ - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=soiaP_5rjJI
ガニマタで,翼のような「えりまき」を精一杯広げているのは,外敵から身を守るための威嚇行為なんだそうです。我々はおもしろおかしくトカゲ君を見ているのかもしれませんが,トカゲ君にとっては命にかかわる一大事で,おそらくは敵と思わしき相手を威嚇しておいて,すきを見て一目散に逃げてしまうのでしょう。
これは,ひょっとすると人間様の「翼賛」に似たところがあるかもしれません。でも,トカゲ君が威嚇する「敵」は,はっきりと物理的に明らかであって,トカゲ君の勘違いの場合もないことはありませんが,彼の経験則からいって,十中八九彼の命にかかわる「敵」であり,しかも,この威嚇は相手をやっつけるよりも,自分の身の安全をはかることに焦点が絞られています。
よく,外敵に対して国民は一致団結を,などと軽率に叫ぶ政治家がいますが,それとエリマキトカゲは似ていなくもありませんが,しかし,トカゲ君の方がもっと純情・率直で,文字通り,自己防衛の本能で動いているだけです。他方,政治家の方は,たいていの場合がろくでもないことを念頭に置き,「外敵」なるものをでっちあげておいて,自分の政治目的を達成するために国民を煽っている場合が多いのです。そして,そういう政治家は,たいていが「イザ」となると,エリマキトカゲ君のようなガニマタで一目散に逃げてしまうのです。数年前の第一次安倍内閣の時に,参議院選挙に負けて思うように行かなくなり,入院を口実にして総理大臣を辞任した安倍晋三などはその典型でしょう。エリマキトカゲにも劣るろくでなしです。
つまり,鳥やトカゲたちの「翼賛」は,人間のものとは違って,それはそれは美しくも,あるいは至極まっとうな生き残りのための自然な態度であって,納得感はわいても,嫌悪感や不快感はありません。でも,人間社会の「翼賛」はどうでしょうか?。
上記で見た国語辞典の解説「力をそえて(天子などを)たすけること」で,「天子」とは「天使」(エンジェル)ではなく「天子」=「天命を受けて人民を治める者,国の君主,天皇」です。しかも,そこには「天子など」と「など」が付いています。
話が広がり過ぎるので「天皇論」はやめておきましょう。でも,アジア太平洋戦争(第二次世界大戦)の前は,国語辞典にあるような「力をそえて天子をたすける」ことが全ての国民に義務付けられ,押しつけられ,そして他方で国民の方もそれが当然だ,そうするのが国民としての使命だ,喜びだ,などと思っていた節があります。ちなみに,当時は国民とは言わずに,臣民と言っておりました。
実は「翼賛」の特徴は,「翼賛」に圧倒的多数の国民が参画し,しかもそれが,「上からの押し付け」ではなく,「下からの自発」「多くの国民の積極的な参加・賛同・賛美・協力」に支えられているということなのです。私が「フクシマ・エートス」を「原子力翼賛」の典型的な事例だと申し上げるのは,「翼賛」という社会現象のこういう特徴にその根拠があります。
そして,今は,この「天子などを」のところが「原子力」なのです。何を翼賛するかは,人でもいいし,王様でも天皇様でもいいし,物でも事でもいい。大半の国民が,翼を広げてそれを讃え,力をそえてそれを=原子力をたすける,そういう状態です。
ここで,ちょっと素朴に考えてみましょう。「翼賛」するものは「何でもいい」と申しました。では,どのようなものでも「翼賛される」ものになり得るのでしょうか。たとえば,川原に転がっている石ころを大半の人達が「それを讃え,力をそえてそれをたすける」などということがあるでしょうか。あるいは,田んぼによくいるアマガエル,このカエル君を「それを讃え,力をそえてそれをたすける」などということがあるでしょうか。もちろん,そんなことはあり得ません。
つまり「翼賛」されるものは,なんでもいいのではなくて,政治的なものであり,もっといえば「権力」というものの象徴的なものでなければならない,社会的にシンボル化されるものでないと「翼賛」の対象にはなりにくい,ということです。「権力」なんて言われてもわからん,という方には,国語辞典をお勧めします。広辞苑には次のように書かれています。
「権力=他人を押さえつけ支配する力,支配者が被支配者に加える強制力」
支配者とは,安倍晋三,経団連,霞が関の高級官僚,アメリカ,そして電力・原子力産業くらいをイメージすればいいでしょうし,被支配者とは我々のことです。強制力なんか受けてない,と思っている人は,国会議事堂の前に行って,警察が歩道の隅っこの方で抗議行動をやれと言って,大ぜいの人達を押しこめているのに逆らって,車道の真ん中に行ってみたら「強制力」の何たるかがよくわかると思います。デモ行進の時に警察の指示に逆らうことでも,よく理解できます。要するに,警察の指示に徹底して逆らってみれば「権力の強制」はよく見えるということであり,つまりまた,警察とは「権力の強制暴力」であることが身にしみて体感できます。
(言い換えますと,みなさま・我々の「自由」とは,権力が強制をしている「枠」の範囲内で「自由」である,ということです。そして,現代社会では,これに「経済的強制」が加わります。たとえば,避難したい人は勝手に避難・移住しなさい,それは「自由」ですと,どこぞのクソ裁判官は判決でほざいておりましたが,定住せよ・避難や移住は許さん,との「経済的強制」があって,たいていの人は自由に避難・移住はできません)
それはともかく,「翼賛」の対象になるものは,何でもいいとは言っても,ただの石ころやカエル君ではだめで,やはり,政治性を帯びたもの,権力の象徴となるようなものでなければならないのです。
それでは,何故,こんな,よく考えるとちょっとおかしな「翼賛」などという人間の集団的行動が生まれてきてしまうのでしょう。どうして,みんなで,「天子」や王様や,どうも胡散くさそうな「原子力」なんぞを「力をそえてたすける」などということをしてしまうのでしょうか?
ここがポイントです。なんでやねん。「翼賛」なんか,なんでしまんねん?
「放射能,みんなで浴びれば,こわくない」・・・・・ウソや,でも,なんで?
今から80年くらい前に,ヨーロッパにE・フロムさんという,鋭い視野を持った偉い学者さんがいて,このフロムさんは,あの犯罪ファシスト集団のナチスドイツとヒットラーが,ドイツの大衆の絶賛を受けて台頭してきた歴史を振り返り「自由からの逃走」という本を書いています。ちなみに,ファシストとはファッショな状態を創りだす人くらいの意味で,ファッショとは「束になる」「束にする」ということです。つまり「国民を束にしてしまう人達」ということでファシストです。
「自由からの逃走」=自由から逃げる,なんか変ですね。学校で習った歴史の話では,ひどい抑圧体制や専制政治体制などの不自由から逃げる・逃走する,というのはよく出てきましたが,その逃げる先は「自由」な所だったはずです。誰からも束縛も抑圧も受けない自由な天地,それを我々の先祖の人々はどれだけ心からその実現を願ったことでしょう。たとえば,ミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」にも,ナチスドイツに併合されるオーストリアから逃げ出す家族達がいましたね。行先は,自由な隣国・スイスでした。
日本でも,アジア太平洋戦争とその少し前の時代は,軍人やその協力者たちが,何かと一般庶民の日常生活にがちゃごちゃと干渉し,天子様(天皇)への忠誠を大義名分に,不自由生活を押し付けていたものです。人間は,第一義的には,何よりも不自由を嫌って,自由へ向かって逃走したり,自由を獲得せんと闘ったりしていたのではなかったのでしょうか。それが「自由から逃げる」??? 何で?
Eフロムさんの説明はこうです。
「○○からの自由は,たしかに(ワイマール憲法)でかなりの水準で達成された。ドイツ国民は自由になった」(ワイマール憲法を日本国憲法と置き換えれば,そのまま日本にも当てはまります)。
「でも,その幸せはや高揚感はいつまでも続かず,自由になったその時から,人々は自分達のこと,自分達の社会のこと,人間関係のあり方のこと,政治や経済のあり方のことなど,たくさんのことを,今度は自分で,自分達で判断して決めなくてはならなくなった。不自由であった時代は,そんなことは,誰か「偉い人」が決めてくれて,それを自分が気に入ろうが,気に入ろまいが,それに黙って従う他なかった。他人が決めてくれて,従う他ないのだから,考える必要もなければ,悩む必要もなく,ただ,好きか嫌いか,うれしいか悲しいか,気持ちいいか悪いか,それだけを感じるだけでよかった(時折,陰口もたたきながら)。でも,今度は,押しつける人がいなくなると同時に,決めてくれる人,考えてくれる人もいなくなったので,代わって自分で考えて決めていかなきゃなんない,しかも,誰も彼もが同じように考えるわけではない中で,ああでもない,こうでもない,が繰り返されるのを我慢して,今まで思いもしなかったようなことまで,ぜーんぶ自分達で決めていかなきゃなんない,そんなことになっちゃった。良くも悪くも,今までは「安定」していたのが,たちまち「不安定」な状態になってしまった」
「しかもしかも,そんなこんなで苦労してやってみたはいいが,ちっともうまくいかない,うまくいかないどころか,自分の生活も含めて毎日がどんどん悪くなっていくような気がしてならない。よくわからないが,何か悪魔でもとりついているような,そんなしんどい社会情勢が一向に収まらない。喧騒に,争いごとに,不運が重なって,待ち望んでいたはずの自由が,だんだんと疎ましく,つらいものに思えるようになってしまった。だから,不安にもなる。心細いし,時間がたてばよくなるようにもとても思えない。みんな,よくわからない中で,情勢が悪くなって行って,生活も苦しくなって,不安になって,いらいらして,こういう状態が日々続いていく」
「そこに,ウソは何度も何度もつき続ければ本当になる,と信念を持って考え行動したヒットラーとその一味が登場し,大丈夫です,皆さま,我がゲルマン民族の民族魂を信頼いたしましょう,諸悪の根源はユダヤ人と共産主義です,彼らを撲滅し,我ら誇り高きゲルマンの純潔を,ここに政治的に力強く実現いたしましょう。我々に全てを任せて下さい,とやり始めた。ゲルマン民族万歳と,全国各地で不安と猜疑心に陥った国民を扇動しまくって,これが大当たりしてしまった。」(ゲルマン民族万歳は,やがてゲルマン民族の他民族に対する優越へと変質し,そこから,その優越民族ゲルマン統一国家の世界支配が政治的課題として浮上してくるのです。詳しくは,チャップリンの映画[独裁者]をご覧下さい)
(上記で,ヒトラーを原子力ムラ,その一味を自民党,ゲルマン民族・民族魂を大和魂,ユダヤ人を風評被害,共産主義者をクソ左翼,と置き換えて,少し前の文章から続けて読んでみて下さい。今の日本にそっくりそのままです)
概ね,お分かりいただけたかと思いますが,「自由からの逃走」は,社会的不安と生活苦にあえぐ多くの国民が,自分の判断や意思で社会的な物事の決定を行うことの重さや責任に耐えきれず,何か自分以外の大きなもの,しかも,自分の周囲の大勢の人が,そうだそうだといっているような人や物に,そうした意思決定や社会的善悪・よしあしの判断を委ね,自分はそれに盲目的に従っている方が,精神的にも情緒的にも楽であり,みんなでワーとやっている間は,何となく安定した気分になる,自分が苦しんで考えたり悩んだりする必要もない,そういう精神構造から生まれてくるのです。この「ワーとやる」こそが「翼賛」です。
そして,みんなと一緒に「ワーとやって」いれば,それが「翼賛」と同じ内容のことであるならば,周囲のみんなが助けてくれたり,応援してくれたりもする。だから,こちらの方がずっと居心地がいい,みんながユダヤ人を虐待するなら,自分はユダヤ人じゃないから,一緒になってやっつけてやれ,原子力は,どえらい学者さんや政府・お上が「大丈夫」と言ってんだから,放射能の「ほ」の字も知らない我々は,つべこべいわずにそれを信じていればいいんだ,みんなもそうしているではないか。考えなくてすむ,悩まなくていい,周りのみんなと同じだ,放射能,みんなで浴びれば怖くない,「原子力翼賛社会」はこうして出来上がっていきます。
「翼賛」にとっては幸いなことに,と言うか,人間にとっては不幸なことに,放射能には,色もなければ臭いもなく,体に触っても体内に入っても,痛くもかゆくもなく,人間の五感では感じられない,目に見えない,音も聞こえない,そんな「悪魔の道具」なのです。「翼賛」して「不安を吹き飛ばす」には,さしあたり,とても都合のいい危険物です。そして悪魔は,忘れた頃に,人伐り斧を担いで忍び寄ってくるのです。
上記のようなことを,被曝に着目すれば,放射線被曝翼賛社会と言ってもいいのですが,こうした放射線被曝を「何でもない」「大したことはない」と,嘘八百をふれて回るその目的が,放射線被曝をさせること,そのものにあるのではなく,少々の放射線被曝は我慢させて,病気になった被害者は切り捨てて,そして原子力・核兵器・原発・核燃料施設を推進していくことが目的ですので,「放射線被曝翼賛社会」ではなく「原子力翼賛社会」と申し上げています。
更に,大事なことは,この「原子力翼賛」ができあがる土壌となっている「不安」や「生活苦」や「悩み」というのは,実はいい加減で出鱈目な原発の安全管理から生じた福島第1原発事故と,その後の加害者・東京電力や事故責任者・国の不誠実極まる態度によってもたらされた,社会的・国家的犯罪行為の結果であることを忘れてはなりません。きちんと安全管理をしていれば,いや,そもそも原発なんぞをやめておけば,福島第1原発事故はなかっただろうし,事故後においても,加害者・東京電力や事故責任者・国が被害者の方々に万全の賠償・補償・再建支援を行い,汚染地域からの移住や避難を保障しておれば,そのような「不安」「生活苦」「悩み」などは,生じるはずもなかったのです。つまり,完璧に人為的に創られた苦境であり,悲劇であり,人権侵害であり,不安であり,悩みであり,生活苦であり,従ってまた,この「翼賛」とは,実に非人間的な原子力推進権力のなせる,許しがたい「巨大なやらせ」だと言えるでしょう。
そして,この「翼賛社会」の最も特徴的,かつ深刻な欠点は,「翼賛しない奴は非国民である」として,翼賛を是とする者たちが大勢で,翼賛を拒否する人達をぶったたき続けるという点です。いわば,社会的なヒステリー状況が,少数者あるいは社会的弱者へのいじめとなって,歪んだ形で出てくるということです。
そして,そこで犠牲になる人達の「しくみ」というのは,日本の社会がこれまでも引きずってきた様々な差別や偏見,遅れた意識や固定観念,あるいは貧富の差などの上に無反省に乗っかり,多勢に無勢の勢いで,多数の勢いを借りて,そして権力のお墨付きをもらって展開されるのです。私はかような人間社会のありようを,心の底から嫌悪いたします。(原子力翼賛と直接は関係がありませんが(間接的には関係があります),昨今の生活保護バッシングと,保護受給希望者への瀬戸際政策=追い払い政策などはその一事例ではないかと思っております)
また,「原子力翼賛社会」について,もう一つ強調しておかなければならないことがあります。それは,「原子力翼賛社会」では,権力と国民が分断され,その権力が秘密のベールに包まれる,言い換えれば,強度の「情報コントロール社会」とされてしまうことも忘れてはなりません。「翼賛体制」とは,この情報コントロールを通じて,「翼賛」させられる側が,させる側の事実上の「家畜」となってしまうという,息の詰まるような近未来でもあるのです。
3.11福島第1原発事故以降だけでも,多くの大事な「本当のこと」が国民に対して隠蔽され,「裏委員会」だの,「秘密事項」だの,「二枚舌」だのがはびこっていたことが明らかにされました。また,市民団体などが原子力関連の情報公開請求をしても,公開されるものは,そのほとんどが「黒塗り」の「ブラック・ペーパー」であることがほとんどです。テロやスパイ行為防止,あるいは個人情報保護などがその口実とされますが,しかし,公開・非公開の判断は全く恣意的で不適切で,要は権力の側・原子力推進の側に不利益となるものは,そのほとんどが隠されてしまっているのです。
更に,国際放射線防護委員会(ICRP)が提唱する放射線被曝管理の枠組みは,実は広島・長崎の原爆被曝者のデータを歪曲したり,都合のいいように取捨選択したりしてきた広島の「放射線影響研究所(RERF)」や,その前身の「原爆傷害調査委員会(ABCC)」のデータを土台にしており,かつそれらが,第二次世界大戦後の冷戦時代の米国の核(兵器)戦略に厳格に従属させられてきたことも明らかになっています。つまり,「原子力翼賛社会」では,放射線被曝のデータさえもが原子力推進権力側によって,容赦なく改竄されたり歪曲されたりしてしまうということを意味しています。これを更に演繹して申し上げれば,およそ原子力や放射能・放射線被曝に関する「科学」が,経験科学ではなくなり,原子力を推進していくための「御用学者」達の「讃美歌」や「お経」のようになってしまうことを意味します。「原子力翼賛社会」では,「科学」が(正確には「経験科学」が)歪められ,貶められ,真実が隠され,真実を追求するものが追い払われ,「科学」が死滅するのです。
このように考えてくると,鳥たちやエリマキトカゲ君達は,同じ「翼賛」でも,とても健全で持続可能ですよね。一方,人間の方の「翼賛」は,これはもう破滅への第一歩です。我々は,頭に冷水をかけてでも,鳥たちやエリマキトカゲに教えを請う,そういう時代に差し掛かっているのかもしれません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は「原子力翼賛」を拒否いたします。
私は「原子力翼賛」による放射線被曝の押し付けに対して嫌悪いたします。
クソ食らえ「原子力翼賛」司祭の原子力ムラ・原子力マフィアども,です。
クソ食らえ「原子力翼賛」の下僕たる政治家,官僚,マスごみども,です。
私は「原子力翼賛」が押しつける人工放射能による一切の被曝を断固として拒否いたします。
0.0000000000000000001mSvだろうが何だろうが,そんなものは,汚染した者がすべて持ち帰ればいいのです。
そして,放射線被曝回避よりも「郷土」復興を上位に置く,言い換えれば,人間の命や健康よりも,物と金と産業と企業に重きを置く「集団的倒錯」を,私は一切受け入れることはありません。被曝は,恒常的な低線量内部被曝は,決定的に危険です。わが身のみならず,末永き子孫にまで遺伝的障害が出る可能性があります。
加害者・東京電力や事故責任者・国は,つべこべいわずに,汚染がもたらしたあらゆる損害を,さっさと賠償していただきたい。
びた一文,おまけするつもりはありません。ちゃんと,支払日までの遅延損害金もあわせて払ってください。
私は,今までもこれからも,子どもたちの命を,家族の命を,未来の命を,最優先で守る,そういう復興と社会を求めます。
私は,被曝拒否の頑固者です。恒常的な低線量内部被曝は,受入れないと言ったら絶対に受け入れません。
「原子力翼賛」など,クソ食らえです。
<追>「ショック・ドクトリン」
最近よく耳にする言葉です。ネット上の解説は下記のようなものです。
「「大惨事につけ込んで実施される過激な市場原理主義改革(The Rise of Disaster Capitalism)」という意味で、カナダのジャーナリスト、ナオミ・クライン(Naomi Klein)氏が昨年著した本のタイトルである。新自由主義の経済学者ミルトン・フリードマンの「真の変革は、危機状況によってのみ可能となる」という主張に対する批判となっている。」
「本書は,2007年秋に刊行された"The Shock Doctrine――The Rise of
Disaster Capitalism"の待望の翻訳です.
著者のナオミ・クラインは1970年生まれのカナダ人.「罪びとの罪を糺す天使」とまで呼ばれる気鋭のジャーナリストです.本書でクラインは,アメリカの自由市場主義がどのように世界を支配したか,その神話を暴いています.ショック・ドクトリンとは,「惨事便乗型資本主義=大惨事につけこんで実施される過激な市場原理主義改革」のこと.アメリカ政府とグローバル企業は,戦争,津波やハリケーンなどの自然災害,政変などの危機につけこんで,あるいはそれを意識的に招いて,人びとがショックと茫然自失から覚める前に過激な経済改革を強行する…….」
私・田中一郎の考える「ショック・ドクトリン」とは,大事故や大災害などの「ショック」「大惨事」につけ込んで社会を不安に陥れ,その情勢を利用して,よからぬ政治家どもが,通常時・平常時にはできないような人権侵害や乱暴行為を,「やむをえない」と称して国民に押し付ける策略のことで,これを繰り返せば,「翼賛」体制へ限りなく近づいていく,というものです。ショック・ドクトリンの典型が戦争です。まんまと乗せられてはいけない,ということです。
ショック・ドクトリン,言ってみれば現代の「火事場どろぼう」のようなものです。
*『ショック・ドクトリン 上・下 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』moreinfo
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/023493+/top.html
草々
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