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2013年6月21日 (金)

21世紀は「環境の世紀」であり,従ってまた,環境と持続可能性を巡っての支配権力に包摂された「似非科学」と「市民科学」との対決の時代である

 

前略,田中一郎です。


 このほど「市民と科学者の内部被曝問題研究会」が第2回総会を記念して講演会を開催いたしました。私もそれに参加し,意見交換の場で発言いたしました。下記はそれに加筆して取りまとめたものです。ご参考までにお送り申し上げます。拙くて長い文章でまことに申し訳ありませんが,少なくとも国民を愚弄し続け,福島県民をはじめとする被害者の方々を今もって踏みつけ続ける原子力ムラ・似非科学者に対する満身の怒りが少しでもお伝えできれば幸いと願っております。どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

*「市民と科学者の内部被曝問題研究会」第2回総会記念講演から

・島薗進(東京大学名誉教授:宗教学):つくられた放射線「安全」論

・地脇美和(市民)、松井英介(医学者)、松井和子(大学教授):IAEAが福島に常駐する目的とは?(~IAEAとWHOがチェルノブイリで行ったことから考える

 

 <私=田中一郎の主張>

21世紀は「環境の世紀」であり,従ってまた,環境と持続可能性を巡っての,支配権力に包摂された「似非科学」と「市民科学」との対決の時代である」

 

 3.11福島第1原発事故とその後に見られた,原子力を巡るいわゆる「科学者」の醜態極まる言動やその姿は,多くの日本国民,いや全世界の人々に「科学とはいったい何か?」「科学者って,なんぼのもんなの?」という根本的・決定的な疑念を抱かせるに至っている。欧米の先進的な思想や哲学の世界,あるいはそれを先駆け的に摂取した日本の一部の論壇では,いわゆる「科学」は,20世紀の早い段階から疑問を呈され,「科学」のあり方に対して徹底した批判が展開されてきた。特に「社会科学」や「人文科学」などは,「自然科学」と同様のアナロジーや言葉遣いで「科学」と表現していいのか,それはあまりにも我田引水のナルシズムであって,単に「社会問題を扱う学(社会問題学)」「人文問題を扱う学(人文問題学)」でいいではないか,という議論さえなされてきた(藤田省三氏がその一例)。

 

 過去の「科学論」の詳細はともかくとして,私は現代の「科学」のありようについて,次の3点を強調しておきたいと思う。結論を先回りして申し上げれば,「学界」の権威づけされた支配的学説を牛耳る「科学」「科学者」なるものは,もはや「似非科学」(ニセモノ科学)・「似非科学者」以外の何ものでもなく,散々に批判された原子力ムラは,その有力な一派にすぎない。しかも,その「似非科学」「似非科学者」が,時の支配権力や大資本の手下となって,強大な影響力と環境破壊力を発揮してくることになるため,おのずとこれを阻止する「市民科学」が対抗的に形成され,21世紀はこの2つの対峙勢力の激しい闘争の世紀となるであろう,ということである。そして,この闘いは,市民というよりも全人類の生存と持続可能性を賭けた「最終戦争」とでも申し上げるべき熾烈な闘いであり,仮にこれに「市民科学」が敗北をするということになれば,それはそのまま人類や地球の滅亡につながりかねない,ということである。

 

 この「似非科学」が支配し,「市民科学」が反旗を翻す「環境の世紀」にあって,「科学」が「似非科学」に転落する態様には,下記のような特徴があることを申し上げておきたい。

 

(1)「科学」とは「経験科学」であったことを忘れている

 科学とは,仮説とその検証,実験等による「経験的」実証の繰り返しのループであり,これによって「真理」に近づかんとする人類の知の営みである。決して,固定化した最終的な「真理」を発見するものでもなければ,微動だにしない絶対的な「真理」をつかみうる方法論が「科学」にあるわけでもない。

 

 従ってまた,「科学」の基本的な方法論は,多くのファクトファンディングに基づく「帰納法」的なものであり(「似非科学」ではない「科学」においては,そもそも,どのようなものをファクトとして拾うのか,という点に,パラダイムや先験的なイデアが存在することは否定できないが,それはその後の検証・実証と,認識の相対化の中で鍛えられる運命にある),科学者の眼前で展開する諸事実に対して常に謙虚な姿勢で,深い洞察力と想像力でその諸事実を受け止め,それを整理し,それらをカオス状態から一定の「法則的」な「まとまり」へと組み立てあげて行くことが,科学の営みの基本であったはずである。

 

 ところが,原子力ムラに代表される「似非科学」「似非科学者」達は,あたかも自分達だけが原子力の絶対的な真理を知っている「英知にたけた原子力に関する全知全能者」であり,その「世紀の賢人」たる「(似非)科学者」が「(似非)科学」を駆使して諸問題や困難を解決し,かつ,勉強もしていない怠慢で無能で無知な下々市民・国民に対して,その持てる「知識」や「真理」を説き教えることで,原子力を巡る「不安」は解消していくのだ,それを「リスク・コミュニケーション」という,との「おふれ」を出している。つまりは,中世ヨーロッパのキリスト教会さながらに,絶対的真理を悟った「科学協会」の司教様達が,その「絶対的真理」を「演繹的」に信者・愚者に対して教え諭す,上から下への「演繹的」手法で,困難も不安も解消していく,それが現代社会における「科学」のあり方,「科学」のありようだというわけである。これを私は,現代版「科学アホダラ教」と名付けたい。

 

 この「アホダラ教会」においては,(似非)「科学司教」の「上から目線」と,信者・愚者の(似非)「科学司教」への「下から目線」がピタリとハーモナイズし,一丸となって自滅・没落への道を歩み続けることになる。

 

 我々一般市民は,権威づけられた支配的な「科学」や「科学者」への「下から目線」をやめ,自身の認識を「相対化」して,「科学者」とともに同じ立ち位置に立つ「水平目線」を保持するようにすべきである。いわば現代の「新水平(目線)宣言」である。全ての「見下されし民」は,過去の「科学技術」なるものの「成功宣伝」に惑わされてはならない。経済成長を達成した社会の経済生活が,昔と比較して豊かになったのは,何も「科学技術」のおかげではない。「科学」や「技術」を持つものが,そうでないものの「上を行く」のでもない。

 

 市民の認識も,科学者の科学的認識も,それぞれの置かれた使命や役割によって差があるにすぎず,両者は「水平関係」「相補関係」「協力共存関係」「相互刺激関係」にある。それぞれの自身の認識が「相対化」され,常に変化する可能性を認めた柔軟な態度をとる限りで,両者のどちらかに優位性があるわけではない。科学と市民は「水平」の関係で協力・協同して,ことにあたるのが21世紀のあるべき姿である。

 

(2)「科学」は狭い専門領域で深く掘り下げられるものであり,総合的な判断に優位性があるわけではない

 科学も科学者も,その活躍できる領域は,非常に狭い「専門領域」に限られており,その領域の中にいる限りで「専門家」であるにすぎない。一歩でも,その隣接領域を含む,専門領域の外に出れば,科学者といえども「ただの人」「一般市民」である。私の若い頃に大学におられた教授の方々は,私が親しくさせていただいた人達に限って言えば,この「専門領域」と「専門性」については「良心的」であり,「謙虚」な姿勢を貫いておられた。決して,自分の専門外のことに,さも自分が詳細を知り尽くしているがごときの態度はとらなかったし,時折専門領域外について発言する時も,科学者としての権威にすがることはなく,単なる一市民・一国民として,つつましく発言し振舞っておられたように思う。

 

 いつから「科学者」と称される馬鹿どもは,自分の専門外のことにまで,その歪みきった薄汚い発想や認識を垂れ流し,それを合理化するために「科学の権威」を振り回すようになったのだろうか。あの3.11後の原子力ムラ・似非学者どもの言動や態度をもう一度思い出してみていただきたい。大したこともない似非学者が,まるで原子力や放射能の全知全能者であるかのごとき振る舞いで,これまた唾棄すべき「マスごみ」の電波や紙面に乗せてもらって,あることないこと,べらべらべらべら,愚にもつかぬことを,市民・国民の前で醜態をさらし続けた,あの姿だ。そして,私が申し上げたいのは,あれこそが,現代の「科学」の実像である,まさに現代「科学」はあのように存在している,そしてそれは原子力の世界だけではない,ということだ。

 

*(参考)検証 原発事故報道(DAYS・JAPAN)

 http://www.daysjapan.net/

 

 解決が難しい諸々の困難に対処するには「科学的」でなければならぬ,と,阿呆ズラをした政治家がよく言う。しかし,本来科学とは「狭い狭い専門の学」であって,しかも仮説と検証のループ的な体系にすぎない(特定の観点より深く掘り下げられてはいる)。人間社会で起きてくる多くのことは,複雑で多面的で多様な連関を内に含んでいる。単純な「科学的解決」が,「科学者」から「自動販売機」のように出てくるなどと思うことは大間違いのことである。

 

 科学者は,せいぜいが,その狭い専門分野における経験知により,個々の問題を整理したり,一定の方向性や選択肢を提示できるに過ぎない。物事を最終的に決めるのは,何も科学的,技術的なことだけで済むものでもない。原子力の世界で言えば,原子力の科学や技術に加えて,社会的な問題とその価値判断や,倫理的哲学的な観点が決定的に求められる。そのような点について,(自然)科学者や技術者は,何ら優位性を持った見解を打ち出せるわけではないし,むしろ,(3)で申し上げるように,科学が支配権力や大資本によって包摂されてしまう時代にあっては,そうした「(似非)科学者」の説明し提唱することなどは,往々にしてマイナスの効果しか持ちえないことをしっかり認識しておくべきなのだ。ドイツにおける脱原発の成功は,ひとえに「倫理委員会」が決定的な影響を持ったのであり,逆にドイツにおいてさえ,原子力の「科学者」達は,脱原発への道に立ちはだかることはあっても,掃き清めることはなかったのである。

 

 科学は,狭い専門領域での「真理の探究」を行う営みであり,社会的な諸問題に対して総合的に適切な判断が下せるものでは決してない。むしろ,そうした問題の解決は,多くの市民が問題解決のテーブルに参加することで可能となるのである。判断を「科学者」にゆだねて,自身の決定責任を逃れるようなことをしてはならない,それが21世紀に生きる市民の「自己責任」である。

 

(3)支配権力や大資本による「科学」の「包摂」と「似非科学」化

 科学が営まれる場である,大学や研究所が危機的状況に陥って久しい。良心的な科学者達によって,数多くの抵抗がなされてきたのが,この数十年間の歴史だったが,世代交代とともに,いよいよいけなくなってきている。科学が,その営みの場も含めて,およそ社会的な存在である限り,科学に対する支配権力や大資本の「統制」の手は緩められることはない。それどころか,科学言論が,世の支配や既成秩序維持に決定的な影響力を持つことを鋭く認識した支配者達は,当然のことながら,科学を自分達の支配の道具として,科学者たちを支配のための「手下」として,丸ごと包摂せんとするのである。そのために使われる手段は,金,名誉,便宜,脅し,何でもありで,ありとあらゆる手を使って,科学・科学者・大学・研究所は,支配権力や大資本によって「包摂」されていくことになる。

 

 「包摂」とは,包み込む,という意味で,ぎりぎりと上から押さえつけて強制する,ということではなく,鞭とニンジンで,科学者を馬のごとく自分達の望む方向へ誘導し,科学者があたかも自分の意思で積極的に能動的に,支配権力や大資本に都合のいい方向で言動・活動してくれるよう誘導することである。つまり,科学者に魔法をかけて馬かロバにして,荷物を運ばせるということだ。科学の「フクシマ・エートス」化とでも言っていいかもしれない。

 

 しかも,現代社会においては,このことの例外を許さないという徹底した「馬化」「鹿化」(あわせて馬鹿化)「ロバ化」が行われる。少なくない科学者,及びその卵となる人達は,抵抗をするだろうが,その抵抗者には,見える形・見えない形で,徹底した弾圧的処分,ないしは「村八分」(消極的集団バッシング)が繰り返される。これに耐えられる剛健な科学者・科学者の卵は,レアーな存在だ。

 

 つまり,いわゆる科学とは(正確には「既成科学」「体制科学」),もはや現代社会においては「似非科学」でしか存在しえず,そうでない科学は,現代社会的な迫害に曝され続けるということである。そしてそれは,何も原子力や原発・核燃料施設に関してだけのことではなく,たとえば遺伝子組換え・バイオテクノロジーの世界も原子力の世界と瓜二つのようなありさまだし,化学物質問題(たとえば環境ホルモンや農薬,毒性学など)の世界でも,非常によく似た「似非科学」の蔓延が始まっている。3.11直後に出された40近い各学界の「福島第1原発事故に寄せての声明・所管・宣言・決議」を見れば,日本の「科学」や学問・学界がどれほどまでに無残に堕落し,転落して「似非科学」「似非学問」となり果てているか,一目瞭然であるように思える(例えば,気象学会長の3.11事故直後の表明を思い出されるとよい)。

 

 その典型事例が,あの頭狂(東京)大学である。この大学は,皆さまご承知の通り,日本の原子力推進の人材養成兼参謀本部のようなところであり,3.11以前も,以後も,変わることなき「似非科学」の牙城として,日本の諸学界を支配し続けている。

 

 ところで,現代社会における「科学の包摂」という危機的な情勢を念頭に置いた場合,いわゆる科学論争における「市民科学」の方法論は,それに対応して少し転換しなければならない。しなければならない,というよりも,そうせざるをえなくなると言った方がいいかもしれない。

 

 支配権力や大資本に「科学が包摂」されてしまえば,その「包摂された科学」は,支配権力や大資本の意向に沿った形でしか議論ができなくなり,従ってまた,科学に必要不可欠な実証や実験などの営みも,その歪んだ意向に大きく左右される。「似非」化した「科学者」達は,支配権力や大資本の意向に沿った代弁をする限りで,諸々の実証や実験の結果をとりまとめ,場合によっては「あることはないことに」「ないことはあることに」されて,その歪んだ先決的な結論(結論があらかじめ決められているという意味)やシェーマを似非実験で裏付けるのである。そして,「似非科学」に支配され操られる政府の政治権力がそれを補強する。

 

 しかし,これに市民の側が真正面から対抗するのは容易ではない。原子力や放射能・放射線被曝の問題について申し上げれば,動物実験や様々な検証・実証には,巨大な施設や設備が必要だし,要員も時間も必要だ。それに伴い巨額の予算・費用も必要になってくる。更に,そもそも放射線被曝ともなれば人間が相手なので,容易なことではデータの収集は難しく,行政や国家権力などのサポートがなければ,事実上,科学に不可欠は検証・実証は難しいだろう。疫学的な探求をするにしても,行政の全面協力なくしては容易にはできない。

 

 それに加えて,支配権力や大資本に不利益な方向で,その意向に逆らって科学したり実証・検証をせんとする科学者は,その科学が支配権力や大資本にとって脅威と感じられたその時から,様々な方法で妨害を受け,懐柔され,包摂されそうになり,頑固であれば弾圧される,そうした運命である。これには容易には耐えられない。

 

 こういう力関係の下での市民の側の科学論争の1つの方法論が「(1)原発・核燃料施設の安全性の立証責任・説明責任は彼らにある」なのだ。予算も,充実した施設も,高スキルの人材も,権限もない市民の側は,権力や資本の側のように,立証・検証・実証が容易ではない。だから,そもそも,それを事業主体の彼らにやらせよう,そして彼らが,それを満足にできないのであれば,彼らの言うことは肯定できない・信用できない,安全とは言えない,という,事業遂行責任の「論理学」や社会情勢を創りあげればいいのだ。言い換えれば,立証責任や説明責任の市民への転嫁を許さない,ということだ。

 

 20世紀的な発想で,何でも「似非科学」のウソを市民側が実験や実証を通じて反証していくというのは,場合によっては可能ではあるが,昔と比べてはるかに困難になっている。しかし,仮にそれができなくても,「似非科学」批判ができないわけではないし,逆に,相手の議論の矛盾を突くことで,彼らの嘘八百を暴露することも大いに可能である。そして,原子力の非「科学」性・「似非科学」性はとことんひどく,この方法論でも十分に闘えるのである。要は,非戦略的に,無邪気な善意で,反証の立証責任や説明責任を市民の側が背負い込んでしまわない方がいいということ,逆に彼らに徹底してやらせてみて,その出鱈目さ加減を赤裸々に衆目の下に置いてやれ,という方法論でも十分に太刀打ちできるということである。

 

(4)支配権力や大資本に包摂されて「似非」化した「科学」を市民の手に取り戻そう

 人類が手にしている科学や技術は,かつてとは違って,それが仮に似非であろうとなかろうと,地球環境に対して決定的な影響力とパワーを持ってしまっている。この扱いを一歩間違えば,人類は地球もろとも滅び去ることになるだろう。私は,この地球スケールの危機として,次の5つを指摘したい。そして,これに対抗し,人類が歩む方向を矯正できるできる思想は「持続可能性」であると考えている。

 a.「2つの核」=原子核(原子力)と細胞核(遺伝子組換え・バイオテクノロジー)

 b.化学物質の野放図な氾濫

 c.二酸化炭素の大量放出

 d.熱帯雨林や海洋生態系の破壊(行き過ぎた開発優先主義)

 

 21世紀は,上記の5つの「地球破滅の危機」を巡る「環境(争乱)の世紀」となるだろう。そして,その世紀に人類は,環境を破壊し,活動の利益の独占を狙う支配権力に包摂された「似非科学」「似非科学者」と,それを否定し,地球や環境の持続可能性と,多様な人間や生き方の共存を担保する「生まれ変わった科学」を構築していく「市民科学」との対決の場となるだろう。この対決は,地球の存立・持続を賭けた闘いだという意味で「最終戦争」であり,原子力を巡る原子力ムラとの闘争を私が繰り返し「最終戦争」と申し上げているのとほぼ同義である。

 

 「科学」と「科学者」を,「似非」化した権威から引きづり下ろし,「市民科学」として再構築せよ,全ての大学は解体されなければならない。これが21世紀の「科学」を巡る情勢分析である。

 

 <脱原子力へむけての「似非科学」撲滅と,市民のための「科学」の再建のためのスローガン>

 情報公開,市民参加,大学自治の復元など,従来から提唱されている問題解決策や方法論に加えて,私は下記の諸点を付け加えることを提唱したい。そしておそらくは「似非科学」・「似非科学者」との闘いが進むにつれて,更に多くの教訓や課題がもたらされるものと認識している。

 

(1)原発・核燃料施設の安全性の立証責任・説明責任は彼らにある

 決して,危険性の立証責任・説明責任が市民の側にあるわけではない。

 安全性が完璧に証明・実証できないのなら,原子力はやめる他ない。

 危険性が完璧に立証できないから,原子力は続けてもかまわない,のではない。

 大飯原発運転差止仮処分裁判の大阪地裁の裁判官3人(小野憲一,森鍵一,横地由美)の判決を徹底糾弾せよ,彼らを原子力業界に追従する背徳的司法官として世界的に有名にしてやろう。

 

(2)予防原則(慎重原則)

 「似非科学」がはびこる中で科学論争の結末を待っていては,リスクの顕在化を避けるのが極端に遅くなり,決着がついた頃には,環境が決定的に不可逆的に破壊されていたり,多くの犠牲者が出ていて取り返しがつかない,といった事態が生じかねない。従って,いわゆる「予防原則」という「慎重原則」に従い,私的利益や大資本の利益を抑制してでも,被害が生じることを避けるための規制や早めの手当てが必要である。

 よく「予防原則」に対抗して提唱される「科学主義」なるものは,事業を進めるものがその安全性や健全性を立証するのではなく,その事業によって被害を受けるであろう側が事業の危険性を立証し,被害の度合いを説得する責任を負わせられるという「立証責任の逆転」がおまけとしてビルトインされているので要注意である。ペテン師達の理屈に惑わされてはならない。

 

(3)原子力行政における「利益相反」を徹底排除せよ

 原子力の世界は,原子力を推進するものが全てを牛耳るという「利益相反」の塊のようなところである。この「利益相反」を原子力の世界から徹底排除する必要がある。下記に2,3の例を挙げておくが,実際はこんな程度ではない。

 

a.原子力推進の国際本部・国際原子力マフィアの司令部=IAEAは,放射能汚染や放射線被曝の評価をする資格はない(まるで利益相反そのものだ:福島県から帰れ!,二度と来るな!,IAEAに媚を売り,脱原発を誓う福島県にわざわざ招待までしている馬鹿知事の佐藤雄平を辞任に追い込もう。彼らがチェルノブイリ原発事故の後にやったことを自分の目と耳で確かめてみればいい)。

 

b.原子力推進の国内総本山=文部科学省(旧科学技術庁)に環境の放射能モニタリングや汚染状況調査をやる資格はないし,被曝医療を統括する権限を持たせる必要もない(まるで利益相反そのものである:文部科学省の中の旧科学技術庁を解体せよ)。

 

c.原子力「寄生」委員会傘下の検討委員会に抜擢されている委員の中には,電力業界をはじめ原子力産業界から金品や便宜を享受している人間が少なからずいる(まるで利益相反そのものである。全員即時更迭が必要。彼らは案の定,検討会の中で,電力会社の目先の利益を実現すべく,例えば規制基準の緩和や例外を求め続けるという背信的言動を繰り返しているようだ)。

 

(4)いわゆる「科学」への盲目的な信仰や媚び・へつらいをやめ,「科学者」への「下から目線」を放棄せよ

 

(5)自己認識を相対化し,一定の%で定説とは違うことがあり得ることを常に意識しておくこと(100%信じるな:「しらけつつのり,のりつつしらける」(浅田彰))

 

(6)全ての大学を解体せよ

 かつての全共闘のおじさま,おばさま,ふたたびヘルメットとゲバ棒と火炎瓶を持ちて(危ないから,持たない方がいいので,それに似た格好をして),まるで水道工事の作業員のようであっても,再び大学解体に立ちあがっていただきたい。今の日本の大半の大学は腐っている。今こそ,文字通りの「大学解体」が必要である。「包摂された大学」に「大学(科学)自治」を取り戻せ。支配権力や大資本の手下どもを,大学からたたき出せ!!!

 

(7)「似非科学」を「市民科学」に転化し,「科学」の本来のあり方を取り戻せ,「似非科学者」に対して徹底した批判を展開して,その出鱈目暴露によって権威から引きづり下ろし,社会的に葬り去れ。他方で多くの「市民科学者」を育て上げよう。

草々

 

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